Path: jaist-news.jaist!coconuts.jaist!wnoc-tyo-news!news.join.ad.jp!newsserver.jvnc.net!newshub.northeast.verio.net!newsfeed.cwix.com!210.170.134.51!newsfeed1.dti.ad.jp!news2.dti.ne.jp!news1.dti.ne.jp!not-for-mail From: "Gen-ichi NISHIO" Newsgroups: fj.rec.games.roleplaying Subject: Re: About-RPG Date: Fri, 4 Dec 1998 11:12:52 +0900 Organization: GodNet -- A Virtual Reality Environment of the Cyberpapacy Lines: 133 Message-ID: <747fv6$rg8$1@news1.dti.ne.jp> References: <72p3n6$5ba$1@einstein.edu.tuis.ac.jp><72pngk$lsh$1@news1.dti.ne.jp><72qubn$mik$1@einstein.edu.tuis.ac.jp><3651E44F.A0D3E253@mail.interq.or.jp><733216$9c5$1@einstein.edu.tuis.ac.jp><735168$mod$1@news1.dti.ne.jp><73ob0t$bl3@ced20.ced.cas.uec.ac.jp><73ojm6$c62$1@news1.dti.ne.jp><73p918$5n2$1@news1.dti.ne.jp> <742v3d$a02@ced20.ced.cas.uec.ac.jp> NNTP-Posting-Host: ins5.yokohama-ap5.dti.ne.jp Mime-Version: 1.0 Content-Type: text/plain; charset="iso-2022-jp" Content-Transfer-Encoding: 7bit X-Newsreader: Microsoft Outlook Express 4.72.3155.0 X-MimeOLE: Produced By Microsoft MimeOLE V4.72.3155.0 Xref: jaist-news.jaist fj.rec.games.roleplaying:1592 こちらではコンピュータRPG との関係についても考察します。 Yoko Miyamoto wrote in message <742v3d$a02@ced20.ced.cas.uec.ac.jp>... >一方、「失敗した場合のやりなおし」という点については、「ゲーム」 >と「パズル」の間に本質的な違いはない、とわたしは見ます。せいぜい、 >「何手間違ったところで失敗が決定的になるか(=やりなおしが必要にな >るか)」というような話に過ぎない。西尾さんも、 >Message-ID: <73p918$5n2$1@news1.dti.ne.jp> >で「ウォーゲームでは "もう一戦やろう" と言える」ということを言っ >ていますが、そうやって負けた相手に再挑戦する、というような行動の >方が、「ゲーム」においてもむしろ一般的ではないでしょうか。とすれ >ば、コンピューターゲームにおけるリセットを一種の「投了」ととらえ >れば、何も特異な点はない、ということになる。 ゲームにおける「投了」とパズルにおける「やり直し」は根本的に異なるもの、 と私は認識しています。たしかに表面的には似ていますが、この二つは分けて考 える必要があります。 途中まで解いたパズルを投げて最初から全部やり直す、ということであれば、 ゲームにおける「投了」に比較的近いかなとも思います。しかし、コンピュータ RPG のように「セーブしたファイルからやり直す」と言う場合には、かなり扱い が違ってきます。 私は、パズルにおける「やり直し」を、「リセットする」とか「いったん書い たものを消してやり直す」ような明示的なケースだけでなく、もっと一般的な場 合、頭の中だけで考えるようなケースにまで広げて考えています。例えばオセロ における手探索アルゴリズムは、パズルにおける「やり直し」の集積、と考える べきでしょう。「頭の中で十五手先まで読んで『あ、これはダメだ』とわかった のでこの手を捨てて他の手を考える」というような deterministic なアルゴリ ズムに基づく思考であれば、パズルを解いているのと同じであると考えます。そ れだけではゲーム的娯楽にならない (では何があればゲーム的娯楽になるかと言 うと、私は「意思決定」の有無を基準に考えています)。 「セーブしたファイルからやり直す」というのは、手探索とたいへんよく似て います。分岐の手前でセーブしておいて、進んだ方向がダメだとわかったら分岐 の手前に戻ってやり直す。フラグ立てに依存するアドベンチャーゲームの場合は、 まったくの構造同値となります。コンピュータRPG の場合だと、ややランダム要 素が入り、戦闘で勝ったり負けたりしますので、「戦闘で負けたらやり直す」と いう要素が加わります。ですが大筋において同じと言っていいでしょう。オセロ が完全情報ゲームであるのに対し、コンピュータゲームは不完全情報ゲームであ るため、枝刈りの判定がオセロでは頭の中でできるのに対し、コンピュータゲー ムでは「先に進んでみる」という違いが生じる、というだけの話です。 同様に、ペンシルパズルで一度書いた線を消さないとしても、線を書く前に頭 の中で上記のような思考を行っているなら、やはり「パズル的娯楽を遊んでいる」 と見なすべきでしょう。紙と鉛筆でパズルを解いているか、それとも頭の中でパ ズルを解いているかの違いだけです (多くの人は両方を使って解いているでしょ う)。それは実に些細な違いでしかありません。 ただし、全てのパズル的娯楽が上記のようなツリー探索のアルゴリズムに依っ ているかというと、それはまた別の検討が必要でしょう。多くのパズル的娯楽は もっと他の要素も持っていそうな感じがします。ひらめきを必要とするパズルも ありますし。 私は「何度もやり直すのがパズル的娯楽の特徴だ」と書きましたが、「パズル 的娯楽は全て何度でもやり直すという特徴を持っているか」について考えてみる と、確かにちょっと違うのではないかという気がしています。パズルという概念 は、私が考えていたよりもっと奥が深いものかもしれません。これについては、 さらなる検討が必要でしょう。 >一方、コンピューター RPG の場合は、シナリオは言うに及ばず、ルー >ルのほとんどがプレイヤーから隠されている、というのが普通です。 (略) >実際にはルールがある程度分かっていないと戦略の >立てようがないわけで、それでは「ゲーム」にならない。従って、コ >ンピューターゲームにおいてはしばしば、「やりなおし」を繰り返し >つつルールを体験的に探り当てる、というステップが必要になって来 >る。 「RPG ではルールが開示されているのにコンピュータRPG ではルールが開示さ れていない」という点は私も重要だと考えます。これについては別途考察が必要 でしょう。 しかし、「ルールが開示されていないから繰り返しプレイしなければならない」 という点には賛成できません。 先に「不完全情報ゲームなので``実際やってみて→やり直す''というプロセス を経ることになる」と書きましたが、「解く」という視点から見た場合ですと、 要は「ルールが開示されているかどうか」ではなく「完全情報であるかどうか」 の差しかありません。ルールも情報の一つに過ぎません。「解けるかどうか」を 考える上では、ルールもシナリオも全く対等です。 一つの例として、「ルールが開示されているにも関わらず、繰り返しプレイし なければならない」ゲームである、FASA Interactive (Microsoft に買収されそ うという噂のあそこ) から出ているコンピュータゲーム MechCommander を挙げ ましょう。これは、FASA の BattleTech に若干の修正を加えてリアルタイムゲ ーム化したもので、ルールブックと BattleTech を併せて読むと必要なルールが 全部わかる仕組になっています。 しかし、comp.sys.ibm.pc.games.strategic で流れたプレイヤーの声によれば、 「このゲームは、敵がいつどこから出てくるか台本によって決まってお り、``何度かプレイして台本を全部暗記する''というプロセスでシナ リオをクリアできてしまう。ゲームではなくパズルと言うべきだ」 「こちらが違う戦術を試しても敵は台本通りにしか行動しないのが不満」 という意見が大多数を占めていました。こういう考え方がアメリカ人の一般的思 考パターンだとすると、Costikyan が「パズルは静的である」と言った理由が何 となく見えたかなという気もします。まあそれはどうでもいいんですが、ルール が開示されていたとしても、シナリオが開示されておらず、しかもそれが固定的 なものであれば、プレイヤーはやはり「繰り返しプレイすることによってこれを 解く」という方向に流れてしまうでしょう。 しかしそうすると何故 RPG は、シナリオが開示されていないのにも関わらず、 「何度もプレイすることができない」と見なされているのでしょうか。ボードゲ ームでは「投了 → 再対局」ということができるのに、なぜ RPG ではできない のでしょうか。 ボードゲームにおける「投了 → 再対局」に相当するのは、RPG では「全く新 しいシナリオでプレイし直す」ことである、と考えるとすっきりします。 Costikyan はゲームを面白くする要素として「展開の多様さ」を挙げています。 その多様さとは、チェスでは「同じ局面が二度現れることがない」とまで言われ る局面の多さであり、RPG においては「ゲームマスターによって作られるシナリ オ」が毎回異なることを指しています。と、ここまで書けばおわかりでしょう。 チェスを投了して再対局する場合には「次はまた別の局面が現れる」と期待でき ます。同様に RPG を「投了」して「再対局」する場合でも、「次は別のシナリ オになる」ということであれば、これは問題無く「やり直せる」ということにな るわけです。 # Arkham Horror を勝つまでプレイすると誓った人が上記の考え方に当てはまる # かどうかまでは私にもよくわかりません。ゲームをプレイしたいというより、 # あやしいものをプレイしたいだけのような気もする。あれってゲームとして面 # 白いもんかなあ... 同種のテーマでは、今は亡き GDW の Minion Hunters と # かの方がボードゲームとしてずっと出来がいいと思う。 これに対してコンピュータRPG はどうかと言いますと、コンピュータRPG のシ ナリオは「展開の多様性を与える」ものと言うより、かなり純粋な意味での「パ ズルにおける解くべき課題」として用意されている、というのが私の見解です。 パズルなので「展開の多様性」はたいして無くても困らない。「解く」という方 向に特化した結果、今のようなシナリオの作りになってしまった、のでは。 ---- Gen-ichi NISHIO nishio@ca2.so-net.or.jp