Path: coconuts.jaist!wnoc-tyo-news!wnoc-sfc-news!wnoc-kyo-news!aist-nara!odins-suita!ougw2!ccews2!newssinet!news.u-tokyo.ac.jp!komaba!makino From: makino@chianti.c.u-tokyo.ac.jp (Jun Makino) Newsgroups: fj.life.religion,fj.sci.misc Subject: Re: $B%+%k%H$NDj5A(B_____The Identify OfCULT Date: 21 Jun 1995 15:04:16 GMT Organization: Dept. of Earth Science & Astronomy, College of Arts & Sciences, Univ. of Tokyo Lines: 97 Message-ID: References: <4226@aether.hil.ntt.JP> <4227@aether.hil.ntt.JP> <4238@aether.hil.ntt.JP> NNTP-Posting-Host: tache.c.u-tokyo.ac.jp In-reply-to: oshikawa@mmm.t.u-tokyo.ac.jp's message of 21 Jun 1995 12:00:26 GMT Xref: coconuts.jaist fj.life.religion:2906 fj.sci.misc:1209 >>>>> On 21 Jun 1995 12:00:26 GMT, oshikawa@mmm.t.u-tokyo.ac.jp (Masaki OSHIKAWA) said: > もちろんおっしゃるとおりです。falsifiable predictionを出して 実験 > で検証して、なんてことはできないと、そういうことですね。 > ?? > 無限のパラメータを持つ理論では、です。 > 一般的に”不可能だ”と言う結論にはならないと思いますが。 やろうと思えば大抵の理論で無限にパラメータを導入できると思うので すが、どんなものでしょうか。 > a) 二つ理論があってどちらも実験データを同程度にフィットできるなん > ていう状況はそんなに普通ではなく、多くの場面で有効な基準ではない。 > それは、パラメータをたくさん導入してフィットするのは むなしいので > あまり考えないからじゃないですかね。 > やろうと思えばいつでも、実験データの個数だけパラメータを導入した > ”理論”が作れますね。 あらら、上とおっしゃることが違うような気がするのですが。「理論が 作れる」ということと、問題の2つの理論が無限にパラメータを導入でき るということは違うということを上ではおっしゃりたかったのではない でしょうか。 > b) 仮に、これを拡張して「実験データを良く説明できるほうがよい」と > いうことにすればほとんどの新しい科学理論は考えられてすぐ抹殺され > ていなければならない。 > どうしてですか? 例えば「できかけの気体分子運動論」よりも「良くできたフロギストン 説」のほうが実験データをよく説明できるとすれば、どうでしょう。気 体分子運動論はやめにします? >>> Newton力学で惑星の運動を計算する >> 別にNewton力学でなくたって計算はできるという主張はできますね。 >> その”理論”のパラメータ(任意性)がニュートン力学より少なければ >> 優れた理論ですね。 >> 任意性が少なくて、かつ正しい(実験で反証されない)結果を出す >> 理論を作るのはnontrivialなことです。 という発言に比べて > 惑星の運動、物体の自由落下、荷電粒子の運動、その他もろもろを > ”フィット”しようと思ったとき、惑星の運動だけKeplerの3法則で > 考えるより、全部ニュートン力学で考えた方が”パラメータが少ない” > ということだと思います。 というのはずいぶん違う主張に見えますが、それはそれとしてここで問 題なのは、現在の我々が見れば上のような判断ができるわけですが、じゃ あニュートンの時代ではどうだったかということでしょう。「その他も ろもろ」がないわけです。 > とにかく、例えばEinstein VS. Brans-Dicke のように、現段階で > はっきりとした優劣をつけがたい理論を比較する設定ならば > ”ある意味で趣味の問題”と答えます。 そうすると、 > そういう”相対的に正しい”理論を求めていくのが科学だと思います。 という時に、Einstein のほうを Brans-Dicke よりも優れていると思っ て、これに基づいて研究を進めるという態度(つまり常識的な態度)に は趣味以外に合理的(あるいは科学的でもなんでもいいですが)な根拠 がないということですか?結構過激な主張ですね。 >> 理論の”正しさ”に対してもっと深く理解しようと思ったらそういう >> ”信頼性”を何か量的にとらえなくてはいけないような気がします。 > そういうわけで何か量的にとらえたいなというのが「改良された反証主 > 義」の目指すところのようです。けっこうマトモそうでしょ? > 科学者は無意識にそういうこと(”理論”の信頼性の評価)を > やっていると思います。 > もしその”主義?”によって信頼できるcriterionなり何なりが > わかったんだったら科学者も学ぶ価値があるでしょうね。 > (あんまりそうは思えないが) ちょっとわからなくなったのですが、「科学者は無意識にそういうこと ができるのだから、量的にとらえたりする必要はない」ということがおっ しゃりたいのでしょうか。それとも「理論の”正しさ”に対してもっと 深く理解する」必要はないとおっしゃっているのでしょうか。あるいは ひょっとして、「”理論”の信頼性の評価」は無意識にしか行なえない ものだとおっしゃっているのでしょうか。 いずれにしてもなんだかほとんど理性とか科学とかを否定するような発 言に見えますね。 > あんまりメタなことを抽象的に考えるのは、結局不毛なような気がします。 > 結局”科学哲学”でわかったことは何でしょう? 押川さんのおっしゃるような「相対的な正しさ」とか「科学者の無意識」 を理論付けるのは困難であるということではないでしょうか。 牧野@東大駒場