Path: coconuts.jaist!wnoc-tyo-news!etl.go.jp!trc.rwcp!rwc-tyo!news.iij.ad.jp!hskiij-news!hsk-news!hskgw.hitachi-sk.co.jp!wnoc-sfc-news!wnoc-kyo-news!aist-nara!odins-suita!ougw2!ccews2!newssinet!news.u-tokyo.ac.jp!komaba!makino From: makino@chianti.c.u-tokyo.ac.jp (Jun Makino) Newsgroups: fj.life.religion,fj.sci.misc Subject: Re: Science (Re: $B%+%k%H$NDj5A(B_____The Identify OfCULT) Date: 22 Jun 1995 07:21:59 GMT Organization: Dept. of Earth Science & Astronomy, College of Arts & Sciences, Univ. of Tokyo Lines: 171 Message-ID: References: NNTP-Posting-Host: tache.c.u-tokyo.ac.jp In-reply-to: oshikawa@mmm.t.u-tokyo.ac.jp's message of 22 Jun 1995 04:55:36 GMT Xref: coconuts.jaist fj.life.religion:2919 fj.sci.misc:1222 >>>>> On 22 Jun 1995 04:55:36 GMT, oshikawa@mmm.t.u-tokyo.ac.jp (Masaki OSHIKAWA) said: > 大体言いたいことは言い尽くしたような気がするのでそろそろ > このスレッドはおしまいにしましょうか。 そうですね。 > ”できる”けれども、導入すればするほど理論としての魅力は下がるという > ことでしょう。 もちろんです。押川さんのおっしゃる通り(こういうとまた極端な議論 だとかいわれそうですが)結局のところ「魅力」みたいなもの、あるい は「科学者の無意識」とかによって判断しないといけなくなってしまう。 念のためいっておきますが、僕はそれが悪いと思っているわけではあり ません。 > さらに、以前にも申し上げましたが、確かに古典力学では クーロン力や > 万有引力がなぜ1/r^2でなくてはならないのか、必然性がないように > 思えました。いくらでも、理論としては変な項を追加することができる、 > というのは確かに少し不満があります。 > 実験を1/r^2だけでたまたまかなり説明できているが、ずれが見えたら > 補正項を追加してつじつまを合わせるだけじゃないのか、と。 > しかし、場の量子論に至ると、理論的要請だけから Lagrangianの形が > かなり制限されます。余計な項を勝手に付け加えることはできません。 > クーロン力に関してはなぜ1/r^2なのかが部分的にせよQEDで理解できたと > 僕は認識しています。 > 現在の理解では、ニュートン力学も場の理論の一種の近似理論ですから、 > やろうと思えば大抵の理論で無限にパラメータを導入できると思うので > すが、どんなものでしょうか。 > という主張は現代の物理学に対してはあまり成立しないように思えます。 > 科学哲学でその辺を考えている人達には是非場の理論のユニバーサリティー > を勉強して欲しいですね。 ときどき第5の力がどうこうという論文は見ますが、、、、、、、、 > あらら、上とおっしゃることが違うような気がするのですが。「理論が > 作れる」ということと、問題の2つの理論が無限にパラメータを導入でき > るということは違うということを上ではおっしゃりたかったのではない > でしょうか。 > え?全然違ってませんよ。 > 理論として要請される必要条件: 実験結果と矛盾しない > で、理論の”良さ”の指標(の一つ)として、 > 少ないパラメータでたくさんの実験結果を説明できる方が良い > ということを考えましょう、と。 > この観点から、ニュートン力学は必要条件も満たしていて、しかも > 良い理論ですね、という主張ですが。 前に書いたことと同じことを繰り返してもしょうがないので、パス。 >> b) 仮に、これを拡張して「実験データを良く説明できるほうがよい」と >> いうことにすればほとんどの新しい科学理論は考えられてすぐ抹殺され >> ていなければならない。 >> どうしてですか? > 例えば「できかけの気体分子運動論」よりも「良くできたフロギストン > 説」のほうが実験データをよく説明できるとすれば、どうでしょう。気 > 体分子運動論はやめにします? > 別にやめにする必要はないでしょう。その時点では フロギストン説の > 方が信頼性が高いかもしれませんが。 > でも、その段階では フロギストン説よりも気体分子運動論の方が > 正しいと言う実験的証拠はないので、フロギストン説を捨てる理由もない。 「実験データを良く説明する」というのは「実験的根拠」ではないということ ですね。 > 気体分子運動論は誕生当初は”怪しい”説だったかもしれませんね。 > できた当初は一つの考え方だった、ということでいいんじゃないですか。 そうだとすると、「怪しい」説というのもすべからく研究するべきとい うか、すくなくとも研究しない根拠はないということになってしまいま せんか?そういうのはちょっと困ると思う人もいるかも知れません。 >>>> Newton力学で惑星の運動を計算する >>> 別にNewton力学でなくたって計算はできるという主張はできますね。 >>> その”理論”のパラメータ(任意性)がニュートン力学より少なければ >>> 優れた理論ですね。 >>> 任意性が少なくて、かつ正しい(実験で反証されない)結果を出す >>> 理論を作るのはnontrivialなことです。 > という発言に比べて >> 惑星の運動、物体の自由落下、荷電粒子の運動、その他もろもろを >> ”フィット”しようと思ったとき、惑星の運動だけKeplerの3法則で >> 考えるより、全部ニュートン力学で考えた方が”パラメータが少ない” >> ということだと思います。 > というのはずいぶん違う主張に見えますが、 > いやいや、違いませんよ。 > 何度も申し上げているように、 > ”ニュートン力学が正しい”と言う時に、何と比較するかという問題です。 > 牧野さんが、 > ”周天円を何重にも重ねれば、惑星の運動も天動説で記述できる” > という”理論”を提出されたので、それとニュートン力学を比較する際には > 同じ運動を記述するのでもパラメータは少なくてすみますね、ということ。 > こういう多重周天円の天動説と比較すれば、Keplerの3法則は > ニュートン力学と同様に良い理論だと思いますよ。(Keplerの眼力は > すごいと思いませんか?) > で、ニュートン力学 と Keplerの3法則はどっちがいいか、という > 問題になると、(Keplerの3法則からのずれが見えない範囲では) > 惑星の運動だけでは優劣がつけがたいでしょう、と。 > それで他の実験データも含めて優劣をつけましょう、と。 なるほど、「何と比較するかによって判断基準は都合のいいように変えてよろ しい」とそういうことですね。 > ”趣味”と言っても、それなりに科学的な趣味ではあると思いますが、 > それは置いておきまして, > EinsteinもBrans-Dickeもどちらも > パラメータをやたら導入しているわけではない > 弱い重力の極限でニュートン力学にちゃんと帰着する > ニュートン力学からのずれ に関しては実験結果とコンシステント > という判定条件を満たしているマトモな理論である。 > どっちが正しいかは、ある意味で趣味の問題。 > と言っているだけで、最後の一文だけ取り出して 単なる趣味で > 理論を選んでいると言われても困ります。 いや、EinsteinとBrans-Dickeに関してはということです。そうはいっても > 例えば、変な酔っ払いのたわごとよりもEinstein重力を優れていると > 思って、これに基づいて研究を進めるという態度には十分合理的な > 根拠があると言えるでしょう。 とうのはやっぱり > 気体分子運動論は誕生当初は”怪しい”説だったかもしれませんね。 > できた当初は一つの考え方だった、ということでいいんじゃないですか。 というのと矛盾しないかな?という気はしますね。矛盾していてもかま わないと僕は思いますが。 > ちょっとわからなくなったのですが、「科学者は無意識にそういうこと > ができるのだから、量的にとらえたりする必要はない」ということがおっ > しゃりたいのでしょうか。それとも「理論の”正しさ”に対してもっと > 深く理解する」必要はないとおっしゃっているのでしょうか。あるいは > ひょっとして、「”理論”の信頼性の評価」は無意識にしか行なえない > ものだとおっしゃっているのでしょうか。 > 僕の意見を述べますと、 > 深く理解できれば嬉しいけれども、(現段階では)非常に難しいでしょう、と。 おっしゃる通りだと思います。 > 例えば、 > ニュートン力学 > の検証方法と、 > ニュートン力学の検証方法 > の検証方法という問題を考えます。 > 前者は、科学の領域、後者は科学哲学の領域ということになるのかも > しれませんが、どう考えても後者の方がはるかに定量的な議論が難しいで > しょうね。僕に言わせれば前者があやしいなら後者はもっと怪しいでしょう。 > 科学哲学の立場では 後者ができないなら前者もできるはずはない、 > ということなのかもしれません。 前に書いたように、科学哲学にもいろいろあります。例えばラカトシュ あたり( Criticism and the Growth of Knowledge, 1970, Cambridge University Press に入っている論文)を読めば、押川さんのと非常に近 い議論が展開されています。 牧野@東大駒場