Path: coconuts.jaist!wnoc-tyo-news!news.nc.u-tokyo.ac.jp!komaba!news.c.u-tokyo.ac.jp!makino From: makino@chianti.c.u-tokyo.ac.jp (Jun Makino) Newsgroups: fj.soc.pseudo-science Subject: Re: Kubota Takashi & Gotou Manabu (Re: konnno kennichi) Date: 06 Oct 1997 13:48:54 GMT Organization: College of Arts and Sciences, Univ. of Tokyo Lines: 57 Distribution: fj Message-ID: References: <61ab6a$kd4@sakura.kudpc.kyoto-u.ac.jp> NNTP-Posting-Host: muscat.c.u-tokyo.ac.jp In-reply-to: c54262@sakura.kudpc.kyoto-u.ac.jp's message of 6 Oct 1997 09:31:54 GMT Xref: coconuts.jaist fj.soc.pseudo-science:2460 >>>>> On 6 Oct 1997 09:31:54 GMT, c54262@sakura.kudpc.kyoto-u.ac.jp (sakaguchi fuminori) said: > ご指摘は、本来の科学の理想からすれば、科学的に詰めれる > ところは徹底的に吟味して、「なあなあ」を許すな、という > ことではないかと思います。科学的に詰めれる問題は、 > 必ず科学で吟味できるはずだから、という前提に基づいた > ご意見とも受け取れます。 > #勘違いでしたら、お許し下さい。 ちょっとというか、だいぶ違うかもしれません。「許すな」ってわけじゃ なくて、許さないって人が怒られるのはまあありがちなんだけど、そう いうひとがいないってのもちょっと困るかもしれないというくらいです。 > けれども、私は、科学的に徹底的に詰めれる問題は、実は > 無いのでなないか、と考えています。例えば、むかし私が > fj.sci.physics で議論をふっかけて顰蹙を買った > ああいう質問を突き詰めていくと、どこかで > 「その分野の皆が共有する仮定や前提」の存在を認めざるを > 得ないのではないでしょうか。 これはその通りだと私も考えています。 > そして、先日例に挙げた「恣意的な仮定の黙認」と > このような「仮定や前提の共有」との間には、その > 中間のようなものが連続的にあって、結局は程度の > 違いでしかないように思います。 程度の問題だってのはそうでしょうね。 > ですから、「仮定黙認のなあなあ」も「悪意をもって > 敢えて最後までやる」も、いずれも「好ましくないけど > しかたがない」ことではないかと思います。 ここは論理が飛んでいるように思います。上の議論のどこからも「好ま しくない」とか「しかたがない」ということはでてこないのではないで しょうか? > 確かに、冷静に考えればそうかも知れませんが、 > その動機に悪意を感じるのは、科学の問題では > ないわけですから、科学のルールを無視して「怒る」のは > ある意味でむしろ自然ではないでしょうか。 あんまり「自然」とは、、、むしろ、徹底的にやられることに悪意を感 じるとか、怒るってのは、社会的に条件付けられた行動であるように思 えます(そういう、社会的な条件付けが内面化されたもののことをさし て「自然」とおっしゃっておられるのでしたら、その通りだと思います が)。 > で、そういう人達の人数まで気にする必要がどこにあるのか、 > また、彼らは本当に社会の中で科学を品定めする力を > もっているのか、という疑問がでてくるわけです。 うーん、まあ、だから、程度と趣味の問題ではないかと。気にしたい人 が気にするのを邪魔する必要もないように思います。もちろん、逆効果 になっているのではないかという問題はまた別にあるのですが。 牧野@東大駒場