Path: coconuts.jaist!wnoc-tyo-news!etl.go.jp!trc.rwcp!rwc-tyo!news.iij.ad.jp!wincgw1!creamy!icspub!odins-suita!odins-sci!ghidrah!kikuchi From: kikuchi@phys.sci.osaka-u.ac.jp (M.Kikuchi) Newsgroups: fj.education Subject: Re: Quality of a university (Re: [pseudo]) Message-ID: Date: 27 Jul 95 11:57:00 GMT References: <3u7n2q$vm@tmitns.tmit.ac.jp> Reply-To: kikuchi@phys.sci.osaka-u.ac.jp(M.Kikuchi) Distribution: fj Organization: Faculty of Science, Osaka University Lines: 41 NNTP-Posting-Host: ghidrah.phys.sci.osaka-u.ac.jp Mime-Version: 1.0 Content-Type: text/plain 菊池@阪大です ***牧野@東大駒場さん*** >> 一般書だからこそ罪が深い、という点は、既にみなさん何度も強調しておら >> れたと思いますし、笹部さん御自身も教育者である以上、この点は当然ご理解 >> いただいているはずです。 >> あとは、哲学書としては出版されていないこと(ないしは、素人の目には理工 >> 学書にしか見えない形態を意図的に選んでいること)をご納得いただけばいい >>のではないでしょうか。 > >よく考えたらだんだん気になってきたので、ちょっと質問してもいいで >すか。これは、「問題の本が哲学書の体裁をとって出版されたら、(内 >容は同じでも)自分は別になんの文句もない」ということなんですか。 >それでは例えば中沢新一の「雪片曲線論」とか河本英夫の「オートポイ >エーシス」みたいな、一見して自然科学書ではない本であれば自然科学 >的にはデタラメなことが書いてあってもいいということになってしまう >ような気がするのですが。 > >社会的な影響は、どこからみても怪しげな疑似科学書よりも一見まとも >そうな哲学書のほうがずっと大きいかもしれないと思います。 「どこからみても怪しげな疑似科学書」というのは既に専門家の立場じゃないでしょうか。たとえば、「ビッグバンはなかった」という本と「ビッグバン理論は間違いだった」という本が書店に並んでいるときに、一方を疑似科学書であると見抜けるのは専門家(少なくともある程度の素養を持つ人)でしょう。 窪田氏の本にしろ千代島氏の本にしろ、やはり、高校物理程度の素養では疑似科学書であるとはなかなか見抜けないのではないでしょうか。装丁も立派だし、出版社も有名だし、千代島氏に至っては大学助教授だし。 で、違いが分かるくらいの人には疑似科学書は所詮なんの害も及ぼしません。 つまり、疑似科学書をなぜ問題にしているかというと、素人目には科学書と疑似科学書の区別がつかないものであり、かつ読者を非科学に導くものだからです。 科学のつもりで非科学を学び、科学的思考のつもりで反科学的思考を身につける、というのは非常にまずい。 とにかく、こういう問題は専門家の立場ではなく、できるだけ非専門家の立場で考えていただけるといいかと思います。 さて、哲学書と銘うたれているものについては、若干問題が違うと思っています。 もちろん、哲学書といえど科学を扱うのであれば正しい科学的知識のもとに書かれるべきですが、科学書として出さないだけ罪は軽いかなと思います。読者も科学書じゃないんだと思って、ワンクッション置いて読むから。少なくとも科学の勉強をしようと思って読むわけじゃないでしょう。 ニューエイジサイエンスのあたりになってくると、科学だか哲学だかわからないものばかりで、頭が痛くなりますが。 まあ所詮罪の大小の問題で、罪があるには違いないのかもしれません。 哲学書ならよい、のではなく、まだまし、なのです。 --- Kikuchi, Macoto Department of Physics, Osaka University, Toyonaka 560, Japan Tel: 06-850-5349 Fax: 06-845-0518 e-mail: kikuchi@phys.sci.osaka-u.ac.jp http://glimmung.phys.sci.osaka-u.ac.jp/kikuchi.html