記録もしくは日記


写真掲載 (1999/Jan/7)

去年の群馬での試合の結果が ダンスファン誌1999年2月号に掲載されており、 我々の写真も載っていました。嬉しい...

とりあえず、ファスナーが開いている様子は窺えません。 しかし、男性と女性とでフットワークが全然合ってないように見えるなあ。

関東圏の人は、雑誌で写真に撮ってもらえる機会が多いような気がします。 東北の競技会に取材が来てたのを見たことがないものなあ。


LACD東部ノービス戦(1999/Feb/14)

去年は LACD の公式の試合に出場することが許されていませんでしたが、 年が明けてその制限からはずれ、ノービス戦へ出場が可能になります。 そしていよいよその日がやってきました。 振り返ると、長かったような短かったような。 冬の寒い時に早朝から、と予想していたのが、さほど寒くもなく、 受け付けも9時半という余裕のある時刻です。 ただ、プロのアレックスムーアカップとの併催なので、控え室はとても混んでおり、 十分な着替えの場所が取れず、パートナと分かれて着替える羽目になりました。 後楽園ホールを何度も経験しているパートナも、「こんなに混んでるのは初めて」 だそうです。

最初のうちはかなり体が硬かったものの、少しずつ調子を整えるうちに準決勝まで残れました。晴れて LACD 東部の(D級)選手です。 学連さんと junior 選手には全然歯が立たなかったのは予想通り。 これで、これまでごたごたしてたのに区切りがついた感じがするのですが、 実は競技選手としてはやっと start line に着いただけの話ですね。

でも、半年間 basic steps の勉強できたのは良かったなあ。 パートナも「basic の大切さが良くわかった」だそうで。 D級戦からは variation を採り入れることになるのですが、 二人で練習する時は basic を積極的に練習しようということになっています。

私の前の前のパートナーも、同じ試合に出ていました。 そちらの結果はあまり芳しくなく、D級になれなかったようです。 2組4人で一緒に晩ご飯兼反省会となり、 帰りには「次回はD級戦のフロアーで会おう」と言って別れました。


(JBDF)1999年前期C級戦(1999/Mar/21)

目標は1次予選突破でしたが、ふたを開けてみると最終(5次)予選まで。 Waltz 以外はベーシックステップなのに予想外の健闘をしたので、 採点管理に来ていた先生は大笑いしてました。 パートナーは、彼女のキャリアにおいても試合で20曲踊ったのは初めてだそうで、 「次に残っていたとしても、もう踊れなかった。」と(口では)言っていました。 でも、そこできちんと踊れないと、次のレベルには行かないのだろうねえ。

D級選手も多数出ていて、出場組数は217組でした。 1次予選を見た時は、必ずしも素晴らしい踊りの組ばかりではなく、 案外これはイケるかもと感じました。 しかし2次予選になると雰囲気が変わってしまい、 「ああここからがC級戦なのか」と思わされます。 ノービス戦の時は、予選が進んでもそんなにレベルが変わる気がしなかったのが、 さすがC級戦ともなると、予選毎にレベルが上がってしまうものです。

後楽園ホールには、歴代のボクシングのチャンピオンの写真が飾ってあります。 予選中に出番を待つ間、パートナーと一緒にながめていました。 パートナーの受けた感じでは、眉が出ていたり、顔の彫りが深い傾向にあるそうで、...

だそうです。 あなたは一回井岡に打たれなさい。ドレスごと10m後方へぶっ飛ばされなさい。

(JBDF)1999年前期D級戦(1999/Apr/4)

337組も出て盛況の試合でした。我々は4次予選まで。

アマラテンのC級戦を初めて見ました。 スタンダードの方よりエントリー数は少ないのに、激戦の気がします。 前回スタンダードC級戦に出た時は、一次予選は組によってレベルに随分 差がありました。 でもラテンC級の方は、一次予選から格好いい組ばっかりに見えます。

普段ラテンは勉強していないので、 技術的にどの組がうまいとか下手だとかの判別はつかないのですが、 バレエを見る時 (私はバレエの事もよく知らないけど NHK教育で中継してるのを見つけると無意味につけっぱなしにしている) のように、 ずっと女性の足首ばっかり眺めてました。 これだけでも結構飽きないでいられます。


(JBDF)1999年前期B級戦(1999/Apr/18)

3次予選まで。 いまだに Quick は basic step のみで、 特に1次2次予選は running right turn だけやってました。

2次予選が終わった後、控え室で、パートナーが私の顔を見るなり、

「あっ、血!」
あわてて鏡を見ると、なんと額に 5cm ほどの赤いすじがはいっています。 そういえば女性の腕とぶつかったような記憶はありますが、 額にまで届いていたとは気がつかなんだ。 さすが後楽園ホール、格闘技の本場です。 ダンスでまで流血試合ときたか...。 痛いわけでもなく、血が垂れてくるわけでもなく、 タオルでそっとなでてみても乾いた感じなので、 特に処置せず3次予選に出ていきました。

試合が終わって顔を洗おうとしたら、傷口に見えた線は、 血の色そっくりのドレスの羽根のくずでした。 油性の化粧をした額にペッタリくっついていたための勘違い。


(JBDF)1999年前期D級戦その2(1999/May/9)

4位入賞。即日C級昇格。

朝早くに行ったので、着替えの場所に余裕があり、 踊ってるフロアーを見下ろせる良い場所を取れました。 ...と思ったらこれが、 踊りを見るためにみんな入り込んで来たりして、あまり落ち着かない。 表彰式を終って着替えに戻って来たら、 プロモダンの先生への応援の幕を付けようとする人が、 我々のシートの上で準備ををしている。 場所を開けて下さいと言う意味で、「どうも。」と挨拶したら、 全く無邪気な「こんにちはー。」という返事が返ってきた。 あまりに動じないので、 ちょっと遠慮して「先にやっちゃってください」などと言ってしまったら、 何やら延々と準備が続き、 追い払うこともできずに二人でずっと立ちつくす羽目になりました。


楯とトロフィー(1999/May/14)

先日のD級戦で4位入賞で、

をいただきました。 トロフィーと楯を分けることになり、パートナーにトロフィーを渡して、 私が楯をもって帰りました。ところが、家に帰って楯をよくよく見てみると、 「4位パートナー」と明記されています。 別にこのままでもいいのだけど、一応パートナーに渡しておきました。 トロフィーが選手(男・リーダー)、楯がパートナー(女性)と 決まっているのでしょうか。 でも、北関東の全群馬の時は、 同一のトロフィーが2本だったなあ。 ところで、トロフィーとか楯とかって、何のシンボルなんだろうか? 楯は戦いで使う楯としても、トロフィーは?槍かあ?

1999年静岡グランプリ(1999/Jul/18)

Grandprix 3次予選まで。C級スタンダードの方は2位。 Tango のポイントがとれない。C級の決勝の結果も、Tango の出来の悪さがそのまま出た感じ。

朝、東京駅で待ち合わせるもパートナーが現われない。 事態がよく飲み込めないまま、とにかく一人で新幹線で移動してみたら、何故かパートナーは静岡駅のホームで待っていた。 不思議...。

午後に会場に着いたら、午前中までは観客向けの飲食所として使っていた場所が、選手控室に開放されたところでした。 この部屋が、広いわ、絨毯敷きだわ、空調はパリパリ効くわ、ソファがあるわで、すこぶる気持が良かったです。 競技会場でソファに横になれるとは思わなんだ。 おまけにA級の佐藤一徳さんのおとなりだし。 一徳さんは招待選手なので Grandprix 2次予選からのご登場ですが、最初それに気がつかず、のんびり準備していたら出遅れそうになってしまいました。 先輩選手によると、これは「お約束」のありがちな失敗だそうです。

競技の途中でオープニングセレモニーがあり、初めて入場行進なるものをしました。 選手が皆揃って行進するのに加わるというのは、悪くない気分でした。 斎藤衆議院議員は、来賓からの挨拶の中で、他国の招待選手に向けて各国の言葉であいさつをしていました。 さすが、訓練されているものです。 こういう外交や典礼に関しては、普段の生活でかかわり合う局面が多くないだけに、経験ある人の手本を少しでも見習っておきたい。


第4回産経戦千葉・印旛支部ダンス大会(1999/Aug/8)

1位2位はB級選手で、23組と出場組数が少ない割には高レベルの試合でした。 私は5位で決勝入り。 相変わらず学連さんには勝てず、3位4位をもっていかれます。

踊っている途中パートナーの靴が脱げましたが、拾って冷静に履かせてあげました。 一度はこういうこともあろうと、「脱げた時に履かせるのはリーダーの役だから」と、以前にちゃんと打合せ済みであります。

試合の後、選手数組と先生とで飲みに行きました。 その中に、優勝した電通大OBの外山夫妻もいたのですが、おかげで電通大名物「カップ飲み」(注)を見せていただくことができました。 学連出身の人は、ダンスに直接関係する知識はもとより、こういう技芸をいろいろ覚えられるからうらやましいなあ。

(注)優勝カップでビールや酒をイッキするという、名前そのまんまの技もしくは芸?

(JDC)C級戦(1999/Aug/29)

JDC の試合に初めて出たのですが、6位でぎりぎり決勝入りしました。

結果として、JDC やAリーグ(JDSF)での級としては年度末にB級になってしまうようです。 決勝を踊った後、パートナーに 「来年からは(C級以下の)ライジングスター戦は出られないわよ」 と言われて初めてそのことを知り、 なんだか自分の出られる試合の範囲を自分で狭めてしまったような気になって、 少しがっかりしてしまいました。 もちろんB級になること自体は嬉しいんだけど、別の団体(つまり JBDF)ではC級のままなので、どうも堂々Bとも言い切れず、かといってCだとも言えず。 では灰色・斑模様かと思いきや、(JDSFでいうC級以下という)出場資格となると、これはきっぱり出られない。 私が踊ることの目的や動機づけに、昇級のことはあまり関係していないので、級はBでもCでもなんでもよいのですが、何かしら不安定さを感じてしまうなあ。 いろんな団体があるけど、いつか統合されるといいなあ。 沢山の言葉 (JBDF,JDC,JCF,JDSF,A league...) 覚えるのも大変だし

試合の集計は手間取っていたようで、途中5分ぐらいの休憩が2回さしはさまりました。 その際、司会からの予期せぬアナウンスが入ります。

「選手の方々はフロアに出て踊っていただいて結構です。」
そして曲もかかりはじめます。 JBDF 主催で後楽園ホールでの試合では、こういうことなかったもんなあ。 たまたまコーナーの脇に陣取っていた私は、アナウンスを聞いて真っ先に出ていって動き始めることにしました。 パートナーは「え?ちょっと、」などと躊躇してたけど、有無を言わさず踊り始めてしまいました。 多分、他の組も出てくるまでの最初の数小節ぐらいは、solo demonstration 状態だったはず。 観客席も1/3ぐらいは埋まってたようだから、honor dance の練習になったりしたかしら。 数十人?が見てる中、1組で踊るなんて滅多にないチャンスだから、転倒するとか、 観客席の空席に突っ込むとか、何かギャグかませばよかった。 ChaChaCha がかかったので(エンビとドレスのまま)ChaChaCha を踊り出したのは、 あれは寒いギャグじゃなくて、本当に練習のつもりだったっつーの。

(JBDF)1999年後期C級戦(1999/Sep/12)

前期と比べると明らかにレベルが高くなっており、我々は3次予選まで。

会場は大森ベルポートという綺麗なところでした。 外から控室が丸見えなので着替えをするのにちょっと羞しいけど、狭くてたて込んでる後楽園とは雰囲気が大違い。 天井も高くて全体的に明るいから、なんとなく女性のドレスも映える...かな?

終わった後、知合いの選手と一緒にレストランに入ったら、同じ試合に出ていた学連さんたちも食事をしていました。 我々の方は2組の男女4人ですが、学連さんは男の子だけ3人で来ています。 どうして一緒に試合に出た女の子が全然いないんだろう? と私のパートナーに聞いたら、男だけ女だけで固まってしまうのは、学連ではよくあることらしいとのことです。 でもなあ、どうせ晩ご飯に繰り出すなら、わざわざ男だけでかたまらないで、反省会を兼ねて皆で一緒に食べてもいいだろうに。


三笠宮杯ライジングスター戦(1999/Oct/17)

2次予選まで。 学生さんが、4割ぐらいだったろうか、これまでになく沢山出ていた。

宮様からの指摘で、ゼッケンを折らずにつけるよう徹底されていた。 我々は今まで角を折って八角形にして付けていたが、今後は折らないようにしよう。

パートナーのお兄さん、お兄さんの奥さん、奥さんの妹さんが観戦に来ている。 ビデオを撮ってもらった上に、帰りは家まで車で送ってもらった。 自分たちの出番が終った時点で引き上げてしまったのだが、 後から考えるに、少し遅くまで残って、 本戦の決勝などの優れたダンスを見てもらったほうが良かったかもしれない。


(JBDF)1999年後期B級戦(1999/Oct/24)

3次予選まで。 この試合は、LACD の企画で、プロの先生が各組の批評をしてくれることになっている。 それを楽しみにしての出場である。

踊っている途中で、またもやパートナーの靴が脱げた。 例によって、私が拾って足元に置いてあげるも、何やら履くのに苦労している。 「置いて!前に置いて!」とか騒いでいたようだった。 ドレスを着た女性は足元は全く見えないので、 靴を足元に置いてしまっては履けないのであった...。

また、パートナーが急に途中で踊りをやめてしまう場面もあった。 他の組にドレスがひっかかり、「ビリッ」と不穏な手応えがあったらしい。 後から聞くと、幸い縫って修復できたとのこと。


(JBDF)1999年C級戦(神奈川)(1999/Nov/21)

横浜での今年最後の試合ですが、最終4次予選まで。

1次予選が終ったあたりから、パートナーが背中が痛いと言い出しました。 はっきりした原因はわからないのですが、 どうやら、前日に整体師に少々過激な施術を受けたのが影響していたらしいです。 2次予選の途中からはいよいよ辛くなって立っていられなくなったようなので、 審査員控室のそばにあったソファに座らせます。 周囲にいらっしゃった先生方が心配して、

「医者か看護婦の方いらっしゃいましたら本部席へ」
というアナウンスが会場に流れることになってしまいます。 じき、プロラテンに出ていた看護婦の佐々木恵先生がいらっしゃって、 患部を温めたり、足裏をマッサージして下さいました。 佐々木先生は、とにかく温め、踊り終ったらシューズをすぐ脱ぎ、手足が痺れるならそれ以上無理しないようにアドバイス下さいました。

私   「無理して出場する理由って何もないじゃん。やめて帰ってもいいよ。」
パートナ「でも踊りたいぃ。」

わがままな奴...。仕方ないから、つき合って踊ってやるしかないかなぁ。 1曲踊っては即ソファーで休ませ、踊っては休ませ、だましだましながら、2次予選を踊りきりました。

大会ディレクターの先生は、 手当ての時間のために我々の出場ヒートをずらしたり、 定められた出場口ではない楽な場所からの出場をさせてくれたり、 色々便宜をはかってくれました。 まるで招待選手、かな。 背中を温めるために、熱い缶コーヒーを調達して下さった先生もいました。 ソファでくつろいでいるお客さんも、とばっちりを受け、私に慇懃ながら強制的に席を譲らせられていました。ごめんなさいね。

その後、手持ちの温湿布を患部にあてて安静にするうち若干の回復をみたようで、 結局棄権することなく最終予選まで踊ってしまいました。 痛みの中、パートナーの follow(踊り)がほとんど普段通りだったのは、 さすがと褒めるべきなのかなぁ? 私としては、この局面で無理・無茶する意味は全然なかったと思ってるんだけどな。


マナベさんのところへ行った(1999/Dec/1)

試合で着ている燕尾服はプロの先生から譲ってもらったものですが、 私には若干袖と裾が短いので、 仕立てた「テーラーマナベ」に持ち込んで直してもらう事にしました。 譲ってもらって以来なんだかんだで15試合も出たので、 一緒にクリーニングもしてもらいたいし。 マナベさんは、 紳士服業界で初めて「日本の名工」に選ばれたのをはじめとして数々の賞に輝き、 競技ダンス用の燕尾服テーラーとしては最も人気がある人の一人です。 店は荻窪にあるのですが、電話したら駅前まで車で迎えにきてくれました。 世間話をしながら店まで向かいます。

「荻窪はダンス教室が多いんですよ。ここは山口先生のスタジオね。」
「ここが中川(勲)先生のご自宅。中川先生のことは今の人は知らないかな?」

「マナベさんは最初どういういきさつで燕尾服作りを始めたんですか?」
「 植木(盛司)先生からの紹介なんですよ。 『今度チャンピオンになれなかった中川というのがいるんだけど、 なんとかしていい燕尾服を作ってやってくれないか。』 という話をいただきましてね。 それまでダンス用の燕尾服は作った事がなかったから、 最初は何もわからないところから研究を始めたんです。 」

(注)植木盛司先生:現JBDF東部総局長

店に着いて持ち込んだ燕尾服を着てみると、 肩はぴったりなものの、裾と袖は直した方がよいということになりました。 直すのに1ヶ月半ほどお預けせねばならないようですが、 これは覚悟はしてたので問題なし。


第2回東京インターナショナルオープン(2000/Feb/20)

1次予選落ち。おかげでリダンスを踊ることができた。しかし2次予選へは通らず。 初めて試合で Viennese Waltz を踊ったが、事前の予測に反して一度も止まらずに踊れた。natural turn だけじゃなく reverse も踊ったし。

選手が出場してきている国の旗が飾ってあったので、試合前に一つ一つ見て歩く。 せっかくインターナショナルな試合に出るのだからね。 フィリピンの旗を見ながら、 4つの星は南十字星なの?とか、 フィリピンから南十字星見えないんちゃう?とか、全く国際事情に関して蒙昧なところをさらす会話をパートナーとしてしまう。

後から思い出すに、 スロバキアの旗 はどうも上下逆に飾ってあった気がする。 それと、どういうわけか、 台湾の旗を 見た記憶がない。 一枚一枚国名を確認しながら眺めていたので、見ていれば記憶にあるはずなのだが…。


Katsu Loves Ballroom Dancing