歴史的コンピュータとソフトウェアプロジェクトに関する昔話(社外公開版)

更新: Jan 12, 2010

もはや保守されていません。 注釈は内容が古くなってしまっています。


SRAオープンソースビジネス部(略称 OSB)の部内メーリングリストで、 歴史的コンピュータや過去のソフトウェアプロジェクトに関する 興味深い議論が行われました。 内輪ウケの域を出ないものではありますが、 公開が公共の益になると考え、可能な部分をここに開示します。 また、SRAの OB, OG の方々や、NEWS の開発に関わった方々からコメントをいただきましたので、それも添えておきます。 公開は渡邊克宏個人の責任によるもので、(株)SRAは内容に関して一切の責任を負いません。

Keywords: SONY NEWS, NEWS-OS, VAX11
Keywords: Σプロジェクト,UNIX Review
Keywords: GNU, FSF, Richard Stallman, Wingnut
Keywords: ソフトウェア工学
Keywords: SRA Boulder office, SDA, Software Designer's Association

このページのタイトルが「歴史的コンピュータと...」などと大袈裟なのは、 初期に部内向けに公開した際に、 最初のメール[OSB-2009]の 「Subject: 写真で見る歴史的なコンピュータ」を継承したことによる。 この Subject: は、メール中で触れた、 インプレスによる展示会レポート写真のページのタイトルを そのまま用いただけであった。 大袈裟だが、内容と乖離しているわけではないと考え、変更をしていない。

配布やリンクについて

全体・一部に関わらず無断複製を禁じます。 ただし適切な引用は可能です。 ここで適切な引用とは、以下の4条件を満たすものを言います。

SRA社内の方は、 社内版 を参照して下さい。 SRAのOB,OGの方には社内版をお配りできるかもしれませんので、 ご希望の方はご連絡下さい。

リンクは自由にはって下さい。雑誌等への URL の紹介も、断りなくやってください。 個々の記事の先頭にはアンカーを付してあります。 例えば [OSB 2009] という Subject の記事は、

http://katsu.watanabe.name/doc/comphist/#OSB-2009

という形で参照できます。

意見・感想・情報提供の募集

ご意見ご感想・誤りの指摘・その他の情報提供を 強く歓迎しますので、 渡邊克宏 <katsu@watanabe.name> まで お寄せください


[OSB 2009]

・四谷:SRA四谷事業所
OSB部が存在した場所。
・NEWS-800
四谷では、printer server やUUCP サービス用に NWS-830 が数台使われていた。 しかし、2001年2月頃に全て引退した。 NWS-3860 等はまだまだ現役。
・NEWS-799:正しくは NWS-799
NEWS-OS 2.X(正確なバージョン不明)が載ったまま、少なくとも 1995年4月の時点では動作していた。
・岸田さん:岸田孝一さん
日本初のフリーランスプログラマ。 SRA最高顧問。 (株)SRA先端技術研究所所長。 ソフトウェア技術者協会 (SEA)の元代表幹事、現事務局長。 日本UNIXユーザ会(jus)初代代表幹事、現顧問。 第9回ICSE([OSB 2022]参照)のプログラム委員長。 ACM SIGSOFT Distinguished Service Award (2001)を日本人で初めて受賞。 などなど...
From: WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp>
Date: Wed, 14 Mar 2001 00:57:15 +0900
Subject: [OSB 2009] 写真で見る歴史的なコンピュータ

情報処理学会が「情報技術のエポック展」という歴史的コンピュータの
展示会を開いています。3月13日から15日までです。

展示会お知らせ
 http://www.ipsj.or.jp/katsudou/taikai/62display-40.html
インプレスによる展示会レポート写真
 http://www.watch.impress.co.jp/pc/docs/article/20010313/ipsj.htm
(ただし Sun3/60 に載ってたのは SunOS 3.X だったはず)

つい先日まで四谷で使われていた NEWS-800 も博物館入の代物になったか。
確かにあれは名機だった。岸田さんは NEWS の名付け親で、SRA は開発に
協力したそうですね。私の入社前なので詳しい話はしりませんが。かつて
岸田さんの机のとなりには、NEWS-799 という型番の Sony NEWS-800 の
βマシンが置いてあって printer server として動いていたのを思い
出しました。
-- 
渡邊克宏@仕事さぼり中

[OSB 2014]

・From: Yabuki Youichi:矢吹洋一さん
SRA社員。 GNU ソフトウェアのサポートをするWingnutプロジェクトに属する。
・酒匂:酒匂寛さん
元SRA社員。現Designers' Den社長。
・石曽根:石曽根信さん
SRA社員。kinput2 などの作者。

なお、NEWS のうち実際に製品になったモデルとその諸元については、 SONY NEWS シリーズ仕様一覧 を参照されたい。

From: Yabuki Youichi <yabuki@srapc1149.sra.co.jp>
Date: Wed, 14 Mar 2001 21:48:31 +0900
Subject: [OSB 2014] Re: 写真で見る歴史的なコンピュータ

昔話。

> 情報処理学会が「情報技術のエポック展」という歴史的コンピュータの
> 展示会を開いています。3月13日から15日までです。
> 
> 展示会お知らせ
>  http://www.ipsj.or.jp/katsudou/taikai/62display-40.html
> インプレスによる展示会レポート写真
>  http://www.watch.impress.co.jp/pc/docs/article/20010313/ipsj.htm
> (ただし Sun3/60 に載ってたのは SunOS 3.X だったはず)
> 
> つい先日まで四谷で使われていた NEWS-800 も博物館入の代物になったか。
> 確かにあれは名機だった。岸田さんは NEWS の名付け親で、SRA は開発に
NEtWork Station ですね。

> 協力したそうですね。私の入社前なので詳しい話はしりませんが。かつて
してました。新人研修終了後、その関係のプロジェクトに配属されました。

> 岸田さんの机のとなりには、NEWS-799 という型番の Sony NEWS-800 の
> βマシンが置いてあって printer server として動いていたのを思い
> 出しました。
NWS-799 ですね。開発に使ってました。メモリが 2MB しかありませんでしたが、
X 動かしてたような。誰かがリモートログインしてくると
途端に反応が鈍くなるので、すぐわかってしまいました。
799 の前の、キーボードはパソコンので代用という、まさに試作機という状態の
マシンもありました。
上記の展示会レポート写真の説明では、NEWS800 のプロトタイプとあるのだけれど、
799 のことなのか、その後に出た 801、802 という型のものか良くわからないな…
製品として最初に出たのは、810(ディスクレス?)、820、830 という三モデル
だったと思います。830 でメモリ 8MB、ディスク230MBぐらい。
それを聞いての、
酒匂:「230MBか。一人じゃとても使い切れないね」
石曽根:「いや、酒匂さんなら」
という会話を何故か今だに憶えてます。
(230MBだと、今ならOSのコアの部分だけでも収まらないと思いますが、
当時は全部入れてもまだ 200MB 近い空き(今なら誤差でしょうが)がありました。)

# yabuki

[OSB 2020]

From: WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp>
Date: Sun, 18 Mar 2001 01:11:16 +0900
Subject: [OSB 2020] Re:  写真で見る歴史的なコンピュータ

> 昔話。

ぜひこういう話は後世に伝えて下さいよ。

> > つい先日まで四谷で使われていた NEWS-800 も博物館入の代物になったか。
> > 確かにあれは名機だった。岸田さんは NEWS の名付け親で、SRA は開発に
> NEtWork Station ですね。
> 
> > 協力したそうですね。私の入社前なので詳しい話はしりませんが。かつて
> してました。新人研修終了後、その関係のプロジェクトに配属されました。

SRA はどんな点で協力したんでしょうか?どの部分を開発したのでしょう?
その中で矢吹さんの担当は?
-- 
渡邊克宏@仕事さぼり中

[OSB 2022](一部編集)

・From: KISHIDA Kouichi:岸田孝一さん
[OSB 2009]などに登場するのと同一人物。
・ソニーの土井さん:ソニーの土井利忠取締役
・MITI:通産省(当時)
ICSE:International Conference on Software Engineering
毎年世界のどこかで開かれるソフトウェア工学の国際会議。
参考:http://www.acm.org/sigmod/dblp/db/conf/icse/
Bob Balzerさん(現在この Web page へのリンクは切れている)
USC/ISI
・Belady さん:Laszlo Beladyさん(現在この Web page へのリンクは切れている)
当時MCC副社長。
・MCC:Microelectronics and Computer Technology Corporation
全米の大企業が出資してできた、電子機器・コンピュータ研究開発のコンソーシアム。
Richard Stallmanさん
GNU project の創設者。 FSF(フリーソフトウェア財団)を主宰。
・引地夫妻:引地信之・引地美恵子夫妻
引地信之さんはSRA社員。 GNU ソフトウェアのサポートをするWingnutプロジェクトに属する。
美恵子さんも、ボストンに行った当時はSRA社員。
・ボストン:FSF の所在地。

岸田孝一・引地夫妻・Wingnut と GNU の関わりについては、 Wingnut-- 企業内起業のプロトタイプ --という記事も参照。

From: KISHIDA Kouichi <k2@sra.co.jp>
Date: Mon, 19 Mar 2001 15:41:46 +0900
Subject: [OSB 2022] Re:  写真で見る歴史的なコンピュータ

At 01:11 01/03/18 +0900, かっちゃん wrote:
> > 昔話。
>
>ぜひこういう話は後世に伝えて下さいよ。
>
> > > つい先日まで四谷で使われていた NEWS-800 も博物館入の代物になったか。
> > > 確かにあれは名機だった。岸田さんは NEWS の名付け親で、SRA は開発に
> > NEtWork Station ですね。
> > 
> > > 協力したそうですね。私の入社前なので詳しい話はしりませんが。かつて
> > してました。新人研修終了後、その関係のプロジェクトに配属されました。
>
>SRA はどんな点で協力したんでしょうか?どの部分を開発したのでしょう?

あのころ,ちょうどソニーの土井さん(いま AIBO を作っている)たちが
SUN 対抗の Unix Workstation を開発しようとしていて,MITI の SIGMA
計画にそれを乗せたいとわたしのところにおいでになったのです.

で,わたしが SIGMA の実情をお話して,SRA は SIGMA と喧嘩別れしたと
いう状況を説明したら,「それなら SIGMA の向こうを張って,あちらより
先に,もっといい Wrokstation を共同でつくっちゃおう」ということにな
りました.それが 1986年の冬から春にかけての話.

で,夏には試作機が完成.9月に新聞発表という運びになった.で,9月の
初めに,わたしが翌年の ICSE の論文審査の打ち合わせに Los Angels の
Bob Balzer のところ(マリナ・デル・レイの USC/ISI) にいっていたら,
そこへ日本から国際電話があって,MITI がクレームをつけてきたので,新聞
発表は延期とのこと.Balzer にその話をしたら,アメリカでは民間企業が政
府のやることに文句をつけることがよくあるが,日本じゃ逆なんだね (!?) と
笑っていました.

日本に帰ってから MITI にねじ込んだ(たしか間に Fixer として,当時は
浪人していた現IIJの鈴木幸一さんに入ってもらった)のですが,結局,MITI
が「ドーモスミマセン」とソニーにあやまって,10月の展示会で発表し,
センセーションを巻き起こしました. SIGMA サイドで作っていたオムロンの
LUNA マシンは、そのころ,まだ影も形もなかった.

わたしがソニーにアドバイスしたマーケティング戦略は,とりあえず最初の
ロットでできた何十台かのマシンを日本全国の大学の研究者に無料で配って
使ってもらうというもの.これもみごとに図にあたったと思います.

その年の11月ころ,何かの用事でアメリカにいったとき,当時 MCC にいた
Belady さんの紹介で,San Francicso で Unix Review 誌のインタビューを
受け,SIGMA とのケンカのいきさつを全部しゃべった(インタビュー自体は
ホテルの部屋で話をしたからよかったのですが,写真はゴールデンゲート公園
の Japanese Tea Garden で撮影するといわれ,大勢の観光客がいる前でフラ
ッシュを浴びて、恥ずかしかったのを覚えています.

その記事が翌年の春にでたのですが,わたしが4月の ICSE @ Monterey を終
って,New York のSRA America を訪問していたとき,たまたまその記事を読
んだ Richard Stallman が,やはり出張先の韓国ソウルから New York Plaza 
Hotel (Left Alone 2 の舞台になったところ)に国際電話をかけてきた.いわ
く:「お前の考えていることはおれと同じだからぜひGNU の活動に協力しろ」
というわけ.

で,日程を打ち合わせて1週間あとに東京でかれにあって,1万ドルの寄付と、
引地夫妻をボストンに送って開発に協力するということをきめました.

といったあたりが歴史の裏話の荒筋ですね.

きしだ @ SEA Office Now

[OSB 2023]

・林さん:林香さん
SRA社員。 OSB 部(このメーリングリストが帰属)部長を経て、 現在 Linux ソリューション部部長。 [OSB 2035]などに登場するのと同一人物
・筏井さん:筏井幸夫さん
元SRA社員。 現在、Quality Software Lab 社長。([sakoh-0104120049] 参照)
From: Yabuki Youichi <yabuki@srapc1149.sra.co.jp>
Date: Mon, 19 Mar 2001 22:11:09 +0900
Subject: [OSB 2023] Re: 写真で見る歴史的なコンピュータ

> > 昔話。
> 
> ぜひこういう話は後世に伝えて下さいよ。
そ、そぉ?

> > > つい先日まで四谷で使われていた NEWS-800 も博物館入の代物になったか。
> > > 確かにあれは名機だった。岸田さんは NEWS の名付け親で、SRA は開発に
> > NEtWork Station ですね。
> > 
> > > 協力したそうですね。私の入社前なので詳しい話はしりませんが。かつて
> > してました。新人研修終了後、その関係のプロジェクトに配属されました。
> 
> SRA はどんな点で協力したんでしょうか?どの部分を開発したのでしょう?
> その中で矢吹さんの担当は?
ううっ。
証言してもいいけど免責でお願いします。

グローバルな話は岸田さんのを読んでいただくとしても、
当時私はまだ「ぼうや」だったので、プロジェクトの全体象とか
どういう作業があったのか列挙はできないのですが、少なくとも5,6本の
プロジェクトが走っていたのは確かです。多分、林さんとかが
良くご存知に違いない。
憶えている限りでは、
・X Window System の移植 (当時は X10R3)
・基本グラフィックスライブラリの作成(私はここ)
・X 上で動作する統合開発環境
などがありました。多分、OS,カーネル回りの作業もあったと思います。
当時の NEWS の特徴として、68020 を二つ積んでいて、一つは I/O を
担当させていました(IOP と呼んでました)。
石曽根さんや筏井さん(旦那さんの方ね)がミーティングで
「じゃあ、そのプログラムを IOP 側に持っていって…」
というような話を呆然として聞いていました。
つまり、CPU と IOP が同じ 68020 なので、CPU の方で I/O 用のコードを
開発して、それを IOP の方のメモリにダウンロードして云々という
ことだったのです。と言われれば、/iopboot というプログラムが
あったのを思い出す人もいるでしょう。

試作機が何台かまとめて入ってきたある日、じゃあネットワークでつなごうか
という話になり、部屋にイエローケーブルを回し、各マシンからトンラシーバ
を接続するために、各自ケーブルに穴をあけよということになり、専用の工具で
おそるおそるぐりぐりとネジ回しのように回してあけました。
当時、ハブなんていうものは奄美大島にしか棲息しておらず、マルチポート
トランシーバーも出回っていなかったので、このような野蛮な行為をしていた
わけです。

後、
・NFS付きカーネルが入った日
・NEWS を抱えてタクシーに
・実はプロジェクト外秘プロジェクトだった
なんてのもあります…

# yabuki

[OSB 2024]

・From: Nobuyuki Hikichi:引地信之さん
[OSB-2022]の引地さんのこと。
From: Nobuyuki Hikichi <hikichi@srapc1149.sra.co.jp>
Date: Mon, 19 Mar 2001 22:51:35 +0900
Subject: [OSB 2024] [OSB 2022] Re:  写真で見る歴史的なコンピュータ


KISHIDA Kouichi さん writes:
 > At 01:11 01/03/18 +0900, かっちゃん wrote:
 > > > 昔話。

 > >ぜひこういう話は後世に伝えて下さいよ。

 > > > > つい先日まで四谷で使われていた NEWS-800 も博物館入の代物になったか。
 > > > > 確かにあれは名機だった。岸田さんは NEWS の名付け親で、SRA は開発に
 > > > NEtWork Station ですね。

 > > > > 協力したそうですね。私の入社前なので詳しい話はしりませんが。かつて
 > > > してました。新人研修終了後、その関係のプロジェクトに配属されました。

 > >SRA はどんな点で協力したんでしょうか?どの部分を開発したのでしょう?
 > 
 > あのころ,ちょうどソニーの土井さん(いま AIBO を作っている)たちが
 > SUN 対抗の Unix Workstation を開発しようとしていて,MITI の SIGMA
 > 計画にそれを乗せたいとわたしのところにおいでになったのです.
:

SRA の話はでていませんが、NEWS に関しての記事の copy が、某所に
張っていました。
 日経夕刊 1999/9/14
        マルチメディア、
                そういえば、WS で、CD-ROM を default で持ったのは、
                NEWS が初めてかも、
        NEWS ... vax11 を持つことが、、、

希望があれば、scan してどっかに置きます、

-- Hikichi N.

[OSB 2025]

From: WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp>
Date: Wed, 21 Mar 2001 11:11:59 +0900
Subject: [OSB 2025] Re: 写真で見る歴史的なコンピュータ

岸田さん in [OSB 2022]
> その年の11月ころ,何かの用事でアメリカにいったとき,当時 MCC にいた
> Belady さんの紹介で,San Francicso で Unix Review 誌のインタビューを
> 受け,SIGMA とのケンカのいきさつを全部しゃべった

それが UNIX Magazine に逆輸入されて1987年8月号に日本語訳されたのが
  http://www.sra.co.jp/people/k2/miscellany/sigma.html
ですね。当時読まなかった人は読みましょう。Σを全く知らない人は
  http://www.pro.or.jp/~fuji/mybooks/okite/okite.9.1.html
とかも併せて読むといいでしょうか...

MCC コンソーシアムも衰退して、望みのある研究を切り離し、
自身は民間会社になるようですね。
  http://www.mcc.com/mcc/about/statesman10jun00.html

通産省(MITI)も、いまや経済産業省(METI)になりましたし。


矢吹さん in [OSB 2023]
> つまり、CPU と IOP が同じ 68020 なので、CPU の方で I/O 用のコードを
> 開発して、それを IOP の方のメモリにダウンロードして云々という
> ことだったのです。

でも IOP を備えたのは NWS-8xx,9xx だけで、 NWS-1800 の世代では
やめてしまいましたよね?素直じゃない設計という判断だったのかしら。
NEWS-1800 代や NEWS-OS 3.x の時は、SRA にお仕事来たんでしょうか?


引地さん in [OSB 2024]
> SRA の話はでていませんが、NEWS に関しての記事の copy が、某所に
> 張っていました。
> 希望があれば、scan してどっかに置きます、

希望します。よろしくお願いします。

-- 
渡邊克宏@仕事サボり中

[OSB 2026]

シグマはどこに消えた? 」 というページも、シグマ計画を俯瞰するよい記事である。 「シグマはどこに消えた?」は、 下の記事および [OSB 2025] で参照したページへのリンクを含め、 各種のシグマ計画言及ページへのリンクが集まっており、 シグマ計画リンク集としての役割も事実上果たしている。

From: kondo <kondo@sra.co.jp>
Date: Wed, 21 Mar 2001 11:35:14 +0900
Subject: [OSB 2026] Re:   写真で見る歴史的なコンピュータ

近藤博次です。

At 11:11 AM +0900 01.3.21, WATANABE Katsuhiro wrote:
>それが UNIX Magazine に逆輸入されて1987年8月号に日本語訳されたのが
>   http://www.sra.co.jp/people/k2/miscellany/sigma.html
>ですね。当時読まなかった人は読みましょう。Σを全く知らない人は
>   http://www.pro.or.jp/~fuji/mybooks/okite/okite.9.1.html
>とかも併せて読むといいでしょうか...

これも面白く読めると思います。

http://www.zdnet.co.jp/macwire/0006/20/c_kangaroo.html

それでは。
-- 
近藤博次
(株)SRA オープンソースビジネス部
TEL:03-3234-5610
kondo@sra.co.jp(会社)
kondo@cr.xdsl.ne.jp(自宅)
HTTP://www.sra.co.jp/people/kondo/

[OSB 2027]

・From Tatsuo Ishii:石井達夫さん
SRA社員。 [OSB 2035]に登場するのと同一人物。
From: Tatsuo Ishii <t-ishii@sra.co.jp>
Date: Wed, 21 Mar 2001 12:27:53 +0900
Subject: [OSB 2027] Re:  写真で見る歴史的なコンピュータ

> > つまり、CPU と IOP が同じ 68020 なので、CPU の方で I/O 用のコードを
> > 開発して、それを IOP の方のメモリにダウンロードして云々という
> > ことだったのです。
> 
> でも IOP を備えたのは NWS-8xx,9xx だけで、 NWS-1800 の世代では
> やめてしまいましたよね?素直じゃない設計という判断だったのかしら。
> NEWS-1800 代や NEWS-OS 3.x の時は、SRA にお仕事来たんでしょうか?

私の記憶では,1700にはIOPがないが,1800は持っていたと思います.3000シ
リーズは知らない.
--
Tatsuo Ishii

[OSB 2028]

・有座さん:有座道春さん
元SRA社員。 Macintosh 用 terminal emulator "Ninja Term" の作者。 現在アドビシステムズ社員。
From: Yabuki Youichi <yabuki@srapc1149.sra.co.jp>
Date: Wed, 21 Mar 2001 12:48:18 +0900
Subject: [OSB 2028] Re: 写真で見る歴史的なコンピュータ

> > > つまり、CPU と IOP が同じ 68020 なので、CPU の方で I/O 用のコードを
> > > 開発して、それを IOP の方のメモリにダウンロードして云々という
> > > ことだったのです。
> > 
> > でも IOP を備えたのは NWS-8xx,9xx だけで、 NWS-1800 の世代では
> > やめてしまいましたよね?素直じゃない設計という判断だったのかしら。
石井さん:
> 私の記憶では,1700にはIOPがないが,1800は持っていたと思います.3000シ
> リーズは知らない.
初期の RISC-NEWS は iop 持ってたような気がします。
(CPU: R3000, IOP: 68030 だったかな?)
今、NWS-3860 である sran230 をちょっと覗いてみましたが、
/iopboot はないけど、iop 持っている雰囲気があります。

> > NEWS-1800 代や NEWS-OS 3.x の時は、SRA にお仕事来たんでしょうか?
うーん、どうでしょうかね? X が 10 → 11 になったのは
NEWS-OS 3.x の時だったと思いますが、X11 の X サーバの移植は
有座さんや石曽根さんがやってた記憶があります。

# yabuki

[OSB 2032](一部編集)

・k2:岸田孝一さん
・aoki:青木淳さん
SRA先端技術研究所勤務。世界的に有名な Smalltalk hacker。 4年間ボウルダー勤務の経験あり。
・Boulder office:SRAボウルダー研究所
米国コロラド州ボウルダーに設置された研究所
鳥居宏次先生
斎藤信男先生
片山卓也先生

SDA の正式名称が全くの間違いで、後から岸田さんが訂正していることに注意。

From: WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp>
Date: Fri, 23 Mar 2001 11:30:38 +0900
Subject: [OSB 2032] Re: 写真で見る歴史的なコンピュータ

KISHIDA Kouichi <k2@sra.co.jp> さんいはく in [OSB 2022]
> で,わたしが SIGMA の実情をお話して,SRA は SIGMA と喧嘩別れしたと
> いう状況を説明したら,

「Σの後の岸田孝一外伝」... Boulder への道?

2000年5月13日(土)のこと。k2, aoki, katsu 3人が、四谷三丁目の
「オーベルジーヌ」にて、晩ごはんの欧風カレーとビールを囲んでいる。

katsu:
  そもそもどうして Boulder に研究所を開くことになったんですか?

k2:
  Boulder office を設置したのは、SDA(Software Design and Analysis)
  プロジェクトのとのからみだよ。では SDA プロジェクトは何故始まったか
  というと、Σプロジェクトから抜けて何もやることがなくなったから。 
  Riddle さんは当時コロラド大に居たからね。(だから Boulder に作った)

    (参考 William Riddle 氏: http://www.sei.cmu.edu/staff/wer/
    katsu は、SDA がソフトウェア工学のプロジェクトだということ以外
    何も知りません。Riddle さんの当時の立場も。補足を希望。)

  SDA 以前は、日本でソフトウェア工学をやっていたところはどこもなかった。
  鳥居(宏次)先生、斎藤(信男)先生、片山(卓也)先生たちと始めたのが、
  日本で一番最初だったんだよ。それまでは、みんな計算機理論の方ばかり
  だったが、今やソフトウェア工学の大御所になっちゃったよね。

katsu:
  アメリカでコンピュータ屋がオフィスを開くとなると、シリコンバレーを
  真っ先に思いつきますが?

k2:
  シリコンバレーには面白い人は居ないもんねっ。ちなみに、シリコン
  バレーで SRA が関係してる会社としては Intertech があるけど。

-- 
渡邊克宏@仕事サボり中

[OSB 2035](一部編集)

・From: Kaoru Rin Hayashi:林香さん
SRA社員。 OSB 部(このメーリングリストが帰属)部長を経て、 現在 Linux ソリューション部部長。
石井達夫
SRA社員。 以下の記事の記述の後、ハワイ大学に渡り、 [OSB 2040] にも出てくる PWB project に関わる。 そこで postgres (RDB システムの最も初期の実装のひとつ)に 出会ったことが契機となり、 現在 日本 PostgreSQL ユーザ会 理事長となって活動している。
・歌代君:歌代和正さん
元SRA社員。現在 IIJ 勤務。 NFS、情報セキュリティ、The Internet の基盤技術などの専門家。 [utashiro-0105100411]と同一人物。
村井純さん

なお、この記事で語られている当時の SONY 側の状況は、 ソニーヒストリーという Web page の 社内ベンチャーから生まれた「NEWS」 に詳しい。

From: Kaoru Rin Hayashi <rin@sra.co.jp>
Date: Fri, 23 Mar 2001 15:14:09 +0900
Subject: [OSB 2035] Re:  写真で見る歴史的なコンピュータ

少し思い出しました。
At 15:41 01/03/19 +0900, KISHIDA Kouichi wrote:

>あのころ,ちょうどソニーの土井さん(いま AIBO を作っている)たちが
>SUN 対抗の Unix Workstation を開発しようとしていて,MITI の SIGMA
>計画にそれを乗せたいとわたしのところにおいでになったのです.
>
>で,わたしが SIGMA の実情をお話して,SRA は SIGMA と喧嘩別れしたと
>いう状況を説明したら,「それなら SIGMA の向こうを張って,あちらより
>先に,もっといい Wrokstation を共同でつくっちゃおう」ということにな
>りました.それが 1986年の冬から春にかけての話.

このとき、お仕事の話として、最初に土井さんに会いに行ったのが、
僕と金崎(現事業企画部長、当時)営業部長と、石井達夫君でした。
たしか、僕はそのときの待ち合わせではじめて石井君と会ったのだと
思います。石井君は金崎営業部長の技術的な補佐をするという
役目で来たのだと記憶しています。
その当時は、僕が髭をはやしザックを背負っていて、石井君がそんな
恰好で客先に行くのかと驚いていました。

開発には、当時の精鋭、歌代君、石曽根君、有座君などを投入。
BSD unixのポーティングはソニーの技術者(名前を失念?誰か
覚えていない?)が担当していましたので、SRAは
周辺ソフトやX11のポーティングを担当したと記憶しています。

当時を振り返っていくつか思い出すことがあります。

1.SONY NEWSの大きさは当時のビデオデッキの大きさ。
NEWS開発は社内ベンチャーのため、ビデオデッキの製造ラインを再利用する
しかなく、ビデオデッキの大きさにすることがハード技術者への絶対の
ミッションでした。(これは土井さんから聞きました)そのため、
中を空けると、いろんな物がぎっしり詰まっているのでした。
試作品の開発中、ハードの技術者から、空気の流れを計算に入れて、配置しなければ
ならず、大変なだという話を聞きました。
2.土井さんにCDの音は良くないと言ってしまった事件。
共同開発が本決まりになったころ、土井さん、岸田さん達と
お酒を飲みました。なぜかその場に村井純さんもいました。
村井さんは元ギタリストの音楽好きで、音楽の話で盛り上がり、
なにかの弾みで、CDの音はぎすぎすして良くないというような
事を発言してしまったのですが、あとで、土井さんがCDの
生み親だと聞いて、あせりました。



Kaoru Rin Hayashi
Division Manager
Open Source Business Division
http://osb.sra.co.jp/
SRA,Inc.
http://www.sra.co.jp/

[OSB 2037](一部編集)

・手塚さん:手塚宏史さん
ソニーから、 新情報処理開発機構を経て、 現在 (株)オムニサイソフトウエア 勤務。
From: Yabuki Youichi <yabuki@srapc1149.sra.co.jp>
Date: Fri, 23 Mar 2001 15:26:32 +0900
Subject: [OSB 2037] Re: 写真で見る歴史的なコンピュータ

> 開発には、当時の精鋭、歌代君、石曽根君、有座君などを投入。
> BSD unixのポーティングはソニーの技術者(名前を失念?誰か
手塚さんですね?

> 周辺ソフトやX11のポーティングを担当したと記憶しています。
              ^^^
まだ、X10 でした。

# yabuki

[OSB 2038](一部編集)

From: Kaoru Rin Hayashi <rin@sra.co.jp>
Date: Fri, 23 Mar 2001 15:35:59 +0900
Subject: [OSB 2038] Re:   写真で見る歴史的なコンピュータ

At 15:26 01/03/23 +0900, Yabuki Youichi wrote:
> > 開発には、当時の精鋭、歌代君、石曽根君、有座君などを投入。
> > BSD unixのポーティングはソニーの技術者(名前を失念?誰か
>手塚さんですね?
そうそう手塚さんでしたね。


> > 周辺ソフトやX11のポーティングを担当したと記憶しています。
>               ^^^
>まだ、X10 でした。

そうでした。


># yabuki 



Kaoru Rin Hayashi
Division Manager
Open Source Business Division
http://osb.sra.co.jp/
SRA,Inc.
http://www.sra.co.jp/

[OSB 2039]

From: Junichi Kobayashi <junichi@sra.co.jp>
Date: Fri, 23 Mar 2001 17:03:05 +0900
Subject: [OSB 2039] Re:写真で見る歴史的なコンピュータ

KISHIDA Kouichi wrote:
> あのころ,ちょうどソニーの土井さん(いま AIBO を作っている)たちが
> SUN 対抗の Unix Workstation を開発しようとしていて,MITI の SIGMA
> 計画にそれを乗せたいとわたしのところにおいでになったのです.

87年(86年かも)の社員総会で岸田(当時)専務が、OHPに大きく「Beat the SUN!」
と書いて話しをされていました。

いまだと、「Beat the ORACLE!」ですかね。 :-)
-- 
小林純一 mailto:junichi@sra.co.jp http://osb.sra.co.jp/
(株)SRA オープンソースビジネス部 
〒102-8605 東京都千代田区平河町1-1-1 Tel:03-3234-5610 Fax:03-3234-5556

[OSB 2040]

・PCTE:Portable Common Tool Environment
分散したソフトウェア開発環境(CASE)の統合のためのリポジトリ。 ISO 標準になっている。
CMU/SEI: Carnegie Mellon 大学/米国ソフトウェア工学研究所
W. Humphrey さんらが、CMM(Capability Maturity Model) を提唱したことで有名。 CMM とは、組織のプロセス成熟度(5段階)に応じて、 ソフトウェアプロセスを改善する方法を提示したもの。
TeraQuest社
CMM に基づいて、ソフトウェアプロセス改善のためのコンサルテーションや教育を行っている会社。
・SEPG2001:Software Engineering Process Group Conference 2001
・Prototyper's Workbench:略称 PWB
状態遷移図・ペトリネット・アクターモデル等でプロトタイピングを多面的に行おうというツール。 モデル記述のための文法(メタモデル)自身を記述ことができた。 [mnitta-0105090940] の ERAS の項参照。
・Lloyd William さん:Lloyd Williams さんの誤植。
ソフトウェア開発のコンサルタント。
Gerhard Fisher 先生
コロラド大教授
Leon Osterweil 先生
マサチューセッツ大学教授
・熊谷さん:熊谷章さん
PFU勤務。
・深瀬さん:深瀬弘恭さん
ASCII 漢字 UNIX の開発者。IIJの創設者で、現在は取締役会長。
・宮本勲さん:ハワイ大学教授
[mnitta-0105090940]の M-box の項も参照。
・野村さん:野村敏次さん
JIP(日本電子計算)勤務。
From: KISHIDA Kouichi <k2@sra.co.jp>
Date: Sat, 24 Mar 2001 16:06:54 +0900
Subject: [OSB 2040] Re:   写真で見る歴史的なコンピュータ

At 11:30 01/03/23 +0900, かっちゃん wrote:
>katsu:
>   そもそもどうして Boulder に研究所を開くことになったんですか?
>
>k2:
>   Boulder office を設置したのは、SDA(Software Design and Analysis)
>   プロジェクトのとのからみだよ。では SDA プロジェクトは何故始まったか
>   というと、Σプロジェクトから抜けて何もやることがなくなったから。 
>   Riddle さんは当時コロラド大に居たからね。(だから Boulder に作った)
>
>     (参考 William Riddle 氏: http://www.sei.cmu.edu/staff/wer/
>     katsu は、SDA がソフトウェア工学のプロジェクトだということ以外
>     何も知りません。Riddle さんの当時の立場も。補足を希望。)

まずはいくつかの誤り訂正:

1)プロジェクトの名前は: Software Designer's Associate (つまり,
         ソフトウェア設計者の手助けをするシステム)
2)Riddle さんは当時は自分の会社 SDA (Software Design & Analysis
         社)を主宰していました.
         かれは,もともとは Michigan 大学の先生.そのあと Colorado 大学
         に移り, Head-hunt されてスーパーコンピュータの Cray Research
         の研究所長(在 Boulder).で My.Cray が死んで,研究所が閉鎖され
         たので,自分でコンサルティング会社を始めた.
         SDA プロジェクトが終った後,ツール統合のインフラである PCTE を
         かついで SRA と一緒にがんばったが,時の利にめぐまれず.
         数年前 CMU/SEI に移って Process 支援環境の開発に従事.去年から
         Austin, Texas の TeraQuest 社に入ってコンサルタントとして活躍
         しています.先日 New Orleans の SEPG2001 で会いましたが,元気
         そうでした.

SDA は,ツール統合をモデル・ベースで試みようという Riddle さんの漠然
としたアイデアにもとづいて,日米&産学の技術者・研究者が連続ワークショ
ップ形式で研究開発および討論を数年間続けたという他に類を見ないプロジェ
クトでした.具体的なモノ(Software) としてのアウトプットは出なかったが
(しいていえば SRA と PFU が共同開発した Prototypers Workbench),こ
のプロジェクトを通じてくみ上げられた人間関係(国内&海外)が,その後の
日本およびアメリカのソフトウェア工学コミュニティにもたらした影響はかな
り大きい.

SDA の概念的な構想については,ICSE−10 (Singapore, 1988) の Proceeding
に論文があります.

USA から参加した研究者のうち2人; Riddle さんと Lloyd William さん,
Observer的に参加した Gerhard Fischer 先生の3人が Boulder にいた.そ
して,SDA と姉妹関係にあった Process Programming Project の本拠地が
当時やはり Colorado 大学にいたLeon Osterweil先生(ひところ SRAでわたし
の秘書をしていたエリンさんは Osterweil さんの姪御さん)だったから、SRA
Lab の場所として Boulder が選ばれたのはきわめて自然な成り行き.


>   SDA 以前は、日本でソフトウェア工学をやっていたところはどこもなかった。
>   鳥居(宏次)先生、斎藤(信男)先生、片山(卓也)先生たちと始めたのが、
>   日本で一番最初だったんだよ。それまでは、みんな計算機理論の方ばかり
>   だったが、今やソフトウェア工学の大御所になっちゃったよね。

これは事実.

SDA プロジェクトの最初の計画ミーティングは,ロッキー山脈の真中のスキー
リゾートで,第3回ISPW(プロセス・ワークショップ)と併設で開かれたICSE
のプログラム委員会が終ったあと,Boulder のホテルまで降りてきて,ちょう
どそのとき PC に入ってもらっていた鳥居・斉藤の両先生を交えて,Riddle さ
んの構想をきいたのでした.で,日本に帰ってから,PFU の熊谷さん,Ascii
(当時)の深瀬さん,JIPの野村さん他の方々に声をかけて,プロジェクト運営
資金を集めた.

SDA プロジェクトがはじまる以前は,実際、世界のソフトウェア工学の社会に
顔と名前がしられたいたのは,いまハワイにいる宮本勲さんとわたしの2人くら
いしかいなかった.論文も書かない(書けない?)し,ICSE みたいなメジャー
な会議にだれも参加しなかったのだからしかたがない.SDA はそういう意味で
日本におけるソフトウェア工学コミュニティの生みの親だったといってもいい
でしょう.

>katsu:
>   アメリカでコンピュータ屋がオフィスを開くとなると、シリコンバレーを
>   真っ先に思いつきますが?

去年あたりから,Sun Micro を初めとするハイテク企業がシリコンバレーから
Boulder 周辺に移ってきています.そういう意味では,われわれに先見の明が
あったのかな :-)

[OSB 2050]

From: WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp>
Date: Sun, 01 Apr 2001 09:51:11 +0900
Subject: [OSB 2050] Re:  写真で見る歴史的なコンピュータ

SONY NEWS の仕様, NEWS-OS についての資料をソニーからもらいました。
    http://www.sra.co.jp/people/katsu/doc/sonynews/
ちなみに April fool ではありませんよ...

石井さん in [OSB 2027]
> 私の記憶では,1700にはIOPがないが,1800は持っていたと思います.

おっしゃる通りでした。すいません。

矢吹さん in [OSB 2028]
> 初期の RISC-NEWS は iop 持ってたような気がします。
> (CPU: R3000, IOP: 68030 だったかな?)

これもその通りでしたが、IOP が何だったかまでは確認できませんでした。


引地さん NEWS の記事 scan を、矢吹さん話の続きをお願いします。
-- 
渡邊克宏@SRA 所属不明?
このメールのBGM: "Samba de Janeiro" by BELLINI

[OSB 2053]

・Little Language という連載
sh, csh, awk, sed, sort, m4, perl ...等のスクリプト言語やコマンドを駆使し、 毎回何か有用な機能を実装することを目標としていた。
From: Yabuki Youichi <yabuki@srapc1149.sra.co.jp>
Date: Mon, 02 Apr 2001 23:46:50 +0900
Subject: [OSB 2053] Re: 写真で見る歴史的なコンピュータ

> 矢吹さん in [OSB 2028]
> > 初期の RISC-NEWS は iop 持ってたような気がします。
> > (CPU: R3000, IOP: 68030 だったかな?)
> 
> これもその通りでしたが、IOP が何だったかまでは確認できませんでした。
参考情報。

sran230% uname -a
NEWS-OS sran230 4.2R #0 news3800 r3000
sran230% cd /
/
sran230% file vmunix mrx
vmunix:         MIPS endian big executable not stripped - version 2.11
mrx:            68k pure executable not stripped
sran230%

> 引地さん NEWS の記事 scan を、矢吹さん話の続きをお願いします。
えーと、なんだっけ?
NEWS を抱えてタクシーへ、だったかな。
開発当初は試作機を使って開発していた訳ですが、何台かあるうち
当然当たりはずれがありましたて、調子の悪いものもありました。
うち、一台はディスプレイ(これも特徴だった縦長のモノクロディスプレイ)
を換えても表示が変ということで、SONY に持ち込むことになりました。
私と石曽根さんで、NEWS 本体を交代でひざに載せながら、本社から五反田の
SONY 開発研究所へ。先方の担当者は、林さんの話にも出てきた BSD ハッカーの
手塚さんでした。早速、その場で先方のモニタにつないで試してもらうと
異常なし。「おかしいですねぇ。」と声を揃えるも、現象が再現しないのでは
仕方なし。その後どうなったか、実はよく憶えていないのですが。

ところで話は変わりますが、NEWS の発表と相前後して創刊されたのが
UNiX Magazine でありますが、創刊号から "Little Language" という
連載を受け持っていたりするので、やはり SRA が関係してたのでしょうか?

# yabuki

[OSB 2057](一部編集)

・太田さん:太田靖彦さん
元SRA勤務。当時、環境開発部部長。 引地信之さん・酒匂さん・歌代さん・石曽根さん・有座さん・矢吹さんは、 この環境開発部に属していた。 後に出てくる三浦豊樹さん・石黒隆二さん・曽田哲之さん・歌代純子さん・山田正樹さん・Eric さん・西村亨さんも環境開発部所属。 (ついでに渡邊克宏も1年ほど隅っこにいた。)
From: Kaoru Rin Hayashi <rin@sra.co.jp>
Date: Tue, 03 Apr 2001 19:19:17 +0900
Subject: [OSB 2057] Re:   写真で見る歴史的なコンピュータ

At 23:46 01/04/02 +0900, Yabuki Youichi wrote:

>ところで話は変わりますが、NEWS の発表と相前後して創刊されたのが
>UNiX Magazine でありますが、創刊号から "Little Language" という
>連載を受け持っていたりするので、やはり SRA が関係してたのでしょうか?

Little Languageは今はなき太田さんが纏め役で、
僕、酒匂君、歌代君、などが持ちまわりで書き始めました。
途中からは老体はねた切れで、若い人達が中心で
書いていたように思います。
最近、こういう活動が停滞気味ですね。

Kaoru Rin Hayashi
Division Manager
Linux Solution Division
http://osb.sra.co.jp/
SRA,Inc.
http://www.sra.co.jp/

[OSB 2070](一部編集)

・三浦さん:三浦豊樹さん
元SRA勤務。 前出の環境開発部に属していた。
・srekcah
srekcah.org というドメインがあるのだが、これの持ち主は歌代さんである。
From: Yabuki Youichi <yabuki@srapc1149.sra.co.jp>
Date: Mon, 09 Apr 2001 20:44:55 +0900
Subject: [OSB 2070] Re: 写真で見る歴史的なコンピュータ

駄文であります。お暇な折りにでもどうぞ。

> >ところで話は変わりますが、NEWS の発表と相前後して創刊されたのが
> >UNiX Magazine でありますが、創刊号から "Little Language" という
> >連載を受け持っていたりするので、やはり SRA が関係してたのでしょうか?
> 
> Little Languageは今はなき太田さんが纏め役で、
> 僕、酒匂君、歌代君、などが持ちまわりで書き始めました。
おおっ、西原さんの GS letter の記事の「SRA OBってすごい!」
に出てくるような人達ですね。
[SRA OB の思いで - 「酒匂さんに首をしめられるの巻」「歌代さんの
rwhod ハック」「有座さんに叱られるの巻」「有座さんの xcd コマンドの謎」
「私はクラッカー…三浦さんごめんなさい」等々のネタあります…って
誰に言っているのだろう]

> 途中からは老体はねた切れで、若い人達が中心で
> 書いていたように思います。
一応、筆名は srekcah@sra.junet となっていて誰が書いたのか、
読者にはわからないようになっていましたが、実際に書いているのは
私の周囲にいる人ばかりだったので、内容や文体、回りの雰囲気
(向うの方で何やら議論してた話がしばらくしたら記事になってたとか、
校正用原稿が近くのプリンタに出てたりとか:-)などで大体誰が
書いたか分かりました。
(srekcah って何? と聞いた人もいましたね。わからない人は rev(1) コマンドでも
みてください。)

# yabuki

[sakoh-0104120049]

From: Sako Hiroshi:酒匂寛さん
・NinjaTerm
有座道春さんが assembler で書いた Mac 上の teminal emulator。 free software として配布され、 9600bps のシリアル通信でも使いものになる高速な実装として全世界で使われた。
・YAT:Yet Another Terminal
PC-98 上の terminal emulator。 ファイル転送機能も備えていた。筏井さん作。 松尾さんによって troff 出力の preview 機能が提供された。
・LBP-CX/8:情報もとむ
・dri:情報もとむ
・ditroff:Device Independent troff
初期の troff は、 CAT という特定の写植機にしか出力できなかった。 これを Kernighan 等が一般のプリンタに出力できるようにしたのが ditroff。 (A Typesetter-independent Troffより。) SRAが日本語化して販売していた。
ksch :CUI を備えたスケジュール管理ツール
誰かがどこか(どこでもいい)の機械で入力したスケジュールを、 また別の機械の他人が参照できた。 今やどんなグループウェアでも普通に備えている機能であるが、 登場当時(1980年代中盤)はそもそも「サーバ・クライアントモデル」という言葉でさえ 世間にはあまり広まっていない時代だった。 単一の機械で動く版は fj.sources にも 投稿 されたが、 ネットワーク対応のものはSRA社内のみで利用された。 最初の版は栗原正利さん作。 SRAでは2001年5月まで公式のスケジュール管理ツールとして利用されたが、 その後 Web ベースのシステムに置き換えられた。 2001年10月には、 自由な(free)ソフトウェアとして公開され、 GPL に基づいて配布されている。
fep:Front End Processor
newcsh あるいは tcsh で使えるような、 viやemacs に似たキー操作で以前に入力した行を呼び出したり編集したりする機能を、他の対話的コマンドに対しても使えるようにするコマンド。 大ヒットして世界中で使われる。登場は1980年代のおわり。 (see. <552@srava.sra.JUNET> )

当時 UNIX 上の shell は、 ほとんど original のままの行編集機能のない csh の利用率が非常に高かった。 というわけで、間もなく fep を csh と組み合わせて使おうとする人が現れた。 ところが初期の版の fep は csh との相性が良くなかったらしく、 修整の依頼が続出した。 歌代さんは、 「まさか fep を csh で使う人がいるとは思わなかった」 といいつつ手直しをしていたそうである。

・xme:情報もとむ。
Lisp っぽい言語で、Motif の Widget をいじれた? これを使って色々なコマンドが実装された。
・obento:お昼のお弁当をお弁当屋さんに注文するためのコマンド
・新田さん:新田稔さん
元SRA社員。現在、プライスウォーターハウスクーパースコンサルタント勤務。 [mnitta-0105081415] などと同一人物。
・xdoc:X 上で、遠隔の機械に置かれた文書を表示するコマンド
一般化された hyperlink の機能まではなかったが、 目次や索引から文書の目的の場所へ jump する機能があった。
・ボブ:Bob Schulman さん
元SRA社員。 岸田孝一さんが日本の企業で初めてVAXおよびUNIXを導入した際、 BSD3.0のインストールをするのと、 "Ways of Unix"をSRAに植え付けるのを目的として招聘された。 このあたりの事情は、
"A Quarter Century of UNIX";
Peter H. Salus;
Addison Wesley;
ISBN 0-201-54777-5
(邦訳:「UNIXの四半世紀」)
のp.133に詳しい。 現在Seaweed Systems経営。
・CCS:情報求む
・M-Box:Modeling Box
[mnitta-0105090940]の M-box の項参照。
・中川:中川中さん。
ICSE に2年連続して論文が通ったことで社長表彰され、課長(当時)に昇格した。
・D-Box:情報求む
・Zodiac:事務処理アプリケーション開発環境
[mari-s-0105170225] 参照
・Pygmalion:統合開発ツール?情報求む
・大友:大友康雄さん
元SRA社員。
・C-testbed:C言語プログラムのためのテストをサポートする環境
CEC8000のカタログの3ページ目の右下に概念図が出てくる。 Fortran Testbed という製品もあった。
・皆が一斉に cc をかけると VAX が悲鳴を挙げるので
NetNews の記事 <HIRONOBU.91Nov3160059@sran265.sra.co.jp> によれば、 かつてSRAの VAX は「世界で一番混んでいるUNIX」という評判だった。 また、土屋正人さん(SRA先端技術研究所所属)は次のように語っている。
なにせ、混んでくると vi と打ってから休憩室に行き、 コーヒー飲んで戻ってきてもまだ立ち上がらないでいるという、 恐怖のLoad Average 30〜40の世界だったから。
・ICSE9 でツールのデモ:情報求む
From: Sako Hiroshi <sakoh@ba2.so-net.ne.jp>
To: WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp>, sakoh@ba2.so-net.ne.jp
Date: Thu, 12 Apr 2001 00:49:04 +0900
Subject: Re:  歴史的コンピュータに関する昔話

At 14:17 01/04/11 +0900, WATANABE Katsuhiro wrote:
>SRAのオープンソースビジネス(OSB)部は Linux Solution 部に発展して
>なくなってしまいました。

そうでしたか。

>その、なくなったはずの OSB 部のメーリングリストで、SONY NEWS や
>SRAの昔話がここ1ヵ月ぐらい続いてます。酒匂さんの名前も
>出てきますよ。興味あります?...では、こっそりお見せしましょう。
>    http://www.sra.co.jp/people/katsu/doc/comphist/
>よかったら感想を聞かせてください。

とても楽しみました。

でもあの頃(80年代)に関してもっとちゃんとした記録を残しておきたいような
衝動にかられますね。関係者の記憶も年々薄れていきますし。
Who's who も必要だなぁ。

例えば NinjaTerm や YAT の話とか、LBP-CX/8 と dri や 日本語版 ditroff の話。
栗原さんの ksch とか
歌代君の fep とか
私の xme や obento コマンドとか :-)
新田さんの ERAS
石曾根君の xdoc (だったかな。あれはもう一歩踏み込めば WWW ブラウザに発展できましたね)

新人の頃は汎用機の COBOL ソースのコメントの、EBCDICカナ <-> ASCIIローマ字変換フィルタを作ったりも
しましたね。あれが lex を使った初体験でした。

CCS(ボブ), M-Box(筏井), D-Box(中川), Zodiac(酒匂), Pygmalion(大友)等の大型プロジェクト。
手堅い C-Testbed (栗原)プロダクト。 

そういえば Zodiac プロジェクトのときは、皆が一斉に cc をかけると VAX が悲鳴を挙げるので、
汎用機みたいにコンパイルをキューに入れる仕掛けを作ったりしました。ちょっとセコイ。

もちろん NEWS プロジェクト。X10 のサーバーを歌代君から受け継いで、私がしばらく保守していたことも
ありました。そのとき漢字が出るように修正したり、たしか ditroff のプレビューワなども書いた記憶が。。。
NEWSをかついでモントレーに渡り、ICSE9 でツールのデモをした記憶もあります。

あと結局印税生活には資さなかった Little Language (srekcah@sra.co.jp) とか。
ちなみにこの最終回(No.100) は私が書いています。原稿が残念ながら見つかりませんが。。。

70年代の話を林さんが書いてくれるなら、80年代の話を私がまとめてもいいなあ。
あ、もちろん60年代は岸田さんですね。90年代は .. 誰でしょうかね。渡邊君かな :-)

>筏井さんや太田部長や三浦豊樹さんは今どこに...

筏井さん: QSL (Quality Software Lab.) という個人事務所を設立し、設計・プログラミングをなさっているようです
太田部長:残念ながら知りません。林さんがポインタ位は知っているでしょう
三浦君:昨年 NAIST を辞し、東京に移り CATV のタイタスの社員になったのですが、ご存知のように JCOM に
    吸収合併され、そのままそこの社員をやっています。

ところで渡邊君は Boulder には行かないの?

-- sako
-----------------------------------------------------------------------
  酒匂 寛 <Sako Hiroshi>                  mailto:sakoh@ba2.so-net.ne.jp
  tel&fax: +81-042-749-3169                          mailto:sakoh@d2.to
  Designers' Den Corporation          http://www02.so-net.ne.jp/~sakoh/
-----------------------------------------------------------------------

[mnitta-0105081415](一部編集)

・From: "Minoru Nitta":新田稔さん
From: "Minoru Nitta" <mnitta@pwj.co.jp>
To: <katsu@sra.co.jp>
Date: Tue, 8 May 2001 14:15:46 +0900
Subject: SRA昔話

こんにちは、新田です。


sakoh> でもあの頃(80年代)に関してもっとちゃんとした記録を残しておきたいよ
うな
sakoh> 衝動にかられますね。関係者の記憶も年々薄れていきますし。
sakoh> Who's who も必要だなぁ。


SRAの歴史はツールの歴史?

私が関係したツール(1)

TDG:Test Data Generator 1980ごろ?
COBOLプログラムのテストのための入力データ(シーケンシャルファイル)を生成
するツール。
同様の機能でIBM機向けのパッケージをSRAが扱っていたが、当時、SRAの顧
客だった労働省の
UNISYS機のためにSRAで開発したもの。私が設計からコーディングまでをや
りました。
機能としては、1レコードのあるバイトからあるバイトまでを、数字や文字(COBO
Lのすべてのpicture句に対応)で
埋めるというレコード定義を読んで、シーケンシャルファイルを生成するもの。
ランダムなデータ発生、ある範囲のデータのシーケンスの発生、選択肢からの選択、
条件設定などができる。
FORTRAN(というかSRA製?の構造化FORTRAN)で作成しました。
多分水準3000、MELCOM機でコンパイルしました。
バイナリデータなんかをintegerをshiftして作っていたので、大量データを発生さ
せようとすると、とんでもなく時間がかかった。


TDSS:Top-down design support system 1981ごろ?
プログラムのデザインを擬似コードで「トップダウン」に行い、プログラムコードを
生成するツール。
IPAからの仕事。荻野さんと私で設計しました。(コーディングは外注さん)
PL/I(!)で作りました。
半蔵門SRA本社に富士通@蒲田のセンターの端末を一台置いて、作成。
TDSSの中からシステムコールを使ってメインフレームのフルスクリーンエディタ
を呼び出し、
擬似コードを編集するようにした。
このシステムコールはあまり公開されていないもので(マニュアルにちょこっとだけ
載っていた)、
センターに何回も問い合わせた。これによってセンターの担当者もこのシステムコー
ルに詳しくなった。
納品ぎりぎりになり、ソースを入れた蒲田までオープンリールのテープを取りに行っ
たりもした。
まだワープロはなく、ドキュメントは手書き。


POSSI:1980ごろ?
東電の料金プロジェクトで私が作ったプライベートツール。
COBOLプログラムの各ステートメントの数を数えるとかして、プログラムの複雑
度らしきものを出すツール。
UNISYS機にあったデータベーススキーマを生成するためのツールを使って作った。
黒須さんとかに好評。

つづく(かな?)


荻野さん:荻野徹、もとSRA社員。
黒須さん:黒須小枝子(旧姓中田)、もとSRA社員



---
   NITTA Minoru  Tel:xxx-xxxx-xxxx/xx-xxxx-xxxx
   プライスウォーターハウスクーパースコンサルタント(株)
   セキュリティソリューション本部


[mnitta-0105090940](一部編集)

・宮本先生:宮本勲先生
[OSB 2040]も参照。
・塩谷さん:塩谷和範さん
SRA先端技術研究所勤務。
・「???:名前忘れました。」
[nisimura-0106011636]の、 「有座さんがお作りになっていた MacIntosh 互換のウィジェットライブラリ」 のこと。
・がんこさん:歌代(旧姓三島)純子さん。
元SRA環境開発部。
・UML:(Unified Modeling Lanugage)
もちろん当時 UML どころか OMT もない。構造化分析設計はあったか?
・(T-CAREで)当時SRAが販売契約を結んでいたLISPベースのツール
Refine というリバースエンジニアリングツールのこと。
・西中さん:西中芳幸さん
SRA先端技術研究所勤務。Tcl/Tk の日本語化などの貢献がある。
From: "Minoru Nitta" <mnitta@pwj.co.jp>
To: <katsu@sra.co.jp>
Date: Wed, 9 May 2001 09:40:39 +0900
Subject: Re: SRA昔話

こんにちは、昔話の続きです。



M-Box:modeling box
システムの要求仕様を抽象的なレベルからいくつかのグラフィカルなモデルを用いて
作成するツール。
筏井さんが中心に設計・開発。当時メリーランド大学で教授をしていた宮本先生がダ
イレクション。
当時のワシントン事務所で開発。
開発マシンは、Z8000のUNIX。Z8000で端末を6台サポートしていた!!
当時は、ビットマップディスプレイなんて一般的じゃなかったから、
テクトロのグラフィック端末(とても重い)が1台あった。確かライトペンでモデルを
作成していた。


フローチャートエディタ:
SRA標準のフローチャートを書くツール。
新田がハワイ大学にいるときにMacintoshで作成。


ERAS:Entity-Relationship-Attribute modeling system
構文規則を与えると、その構文にしたがった構文指向のグラフィカルなモデリングエ
ディタになる
メタエディタ。構文規則自体もグラフィカルなモデルとして作成できる。
新田がハワイ大学にいるときにMacintoshで作成。後のPWBのメタツールとなる。
(宮本先生がハワイ大学に移るのに新田もついて行った)

構文指向エディタという考えは、カーネギメロン大学(だったかな)のガンダルフプ
ロジェクトの
メタエディタをヒントにした(このエディタはプログラムコードを書くためのテキス
トエディタを
生成する)
当時(80年代)は、プログラマの生産性向上には、コードをシンタックスエラーなく書
くことが
役立つと考えられていた。

グラフィカルなメタエディタという考えは、上記M-Boxのときにグラフィカルな構文
を決めて
システムに組み込むのに苦労したという経験から。
ERASの構文指向の機能は、(1)エンティティをリレーションシップで結ぼうとする
と、
そのエンティティのタイプから、結合か可能なリレーションシップのタイプのみが
メニューから選べる、(2)エンティティのタイプを変更するなどしてモデルに矛盾が
生じたら、
その部分をハイライトする、(3)全体的な整合性を随時チェックできる。


MOSS:何の略だったか忘れた
ERASの構文を、状態遷移図、ペトリネット、アクションフロー図の三つに固定して、
動的なシミュレーションができるようにしたもの。PWBのシミュレーションエンジン
の原型。
後に、待ち行列図を加えて、時間の長さの概念が入るようになった。


PWB:Prototyper's Work Bench
コンセプト期は新田が、製品化期は塩谷さんが中心に作成。
マシンはSmalltalk。
ハワイ大学の院生にERASを見せて、「これをSmalltalkに移植してみ」と言ったら、
本当に移植してしまったことが発端で、開発に着手。
当時、プロトタイピングというとGUIというか画面の設計が中心だったのを、
ソフトウェアの構造+動作のプロトタイプができるという画期的ツール。
コンソーシアムを作っていろんな企業に参加してもらった。
実際に動的なシミュレーション(並行処理)が動くようになったのは、
新田が東京に帰ってから。


???:名前忘れました。
ERASを引きずっていた新田は、東京に帰ってから、ERASをUNIX&Xで動かすため、
有座さんに、Macの主にグラフィック関係のシステムコールのシミュレータを
X(X10)で作ってもらった。ただし、X10-->X11の過渡期であったため、
あまり使われなかったのは残念。


PL/M Test-Bed
C Test-Bedの機能を真似て、新田が作りました。
時代は前後しますが、多分、メリーランド-->ハワイの引越しのとき、一時帰国して
いたときに
作ったのではないかと思います。


シンボリックエバリュエータ:
UCSDとの共同研究で作成した、FORTRANプログラムのシンボリックエバリュエーショ
ンを
行なおうというツール。
中川中さん、有座さんがLIPSで作成。
新田はハワイから時々サンディエゴに行って、見ていただけ。
中川さんがフォーマルの世界に入り込むきっかけになったか?


SERA:Software Engineer's Research Associate
完成しなかったツール。新田が大阪大学にいたころ、酒匂さんや、がんこさんなどの
協力で
設計まで行なった。
(新田がハワイから戻ってきて一年後ぐらいに、阪大に研究員ということで行きまし
た。
当時、SRAが阪大に寄付講座を作り、岸田さんが座長をつとめるという計画があり、
その前哨戦
として行きました。結局いろいろあって寄付講座は開かれず、私はそのまま3年間大
阪に)
SERAのテーマは(誰にも言っていなかったけど)、タイムラグが決定的になるような超
遠隔地分散開発の支援。
たとえば、地球と火星に離れた共同開発者がひとつのUMLモデルを編集するにはどう
したらよいか、というようなこと。



T-CARE:Total Computer-Aided Re-engineering Environment 1994
SRAでの新田最後から2番目のツール。
いまはなき某証券会社のソフトウェア資産(COBOL,FORTRAN,JCL)をすべて解析してし
まおうというツール。
UIはTcl/Tkで作成、データベースはC++で作成、解析エンジンは当時SRAが販売契約を
結んでいたLISPベースのツール。
特にTcl/Tkで作った部分は、いまのWeb+Javaスクリプトの構造によく似ていたと思
う。
(Tcl/TkがもっとメジャーになっていたらいまのJavaにとってかわっていたのに
なぁ)

パッケージとして一般販売も狙いましたが、Unisysの標準ツールとして採用されな
かったことと、
某証券会社があんなことになってしまったことにより、ほとんど売れませんでした。



フローチャートエディタ:1994
上記T-CAREの付属ツールとして、西中さんがVBで作成。
SRAで新田が関わった最後のツール。
アイデアは、新田がハワイ大学にいるときに作ったフォローチャートエディタを
そのまま持ってきた。


というわけで、岸田さん、売れないツールばかり作ってごめんなさい。

---
   NITTA Minoru  Tel:xxx-xxxx-xxxx/xx-xxxx-xxxx
   プライスウォーターハウスクーパースコンサルタント(株)
   セキュリティソリューション本部


[soda-0105011950](一部編集)

・From Noriyuki Soda: 曽田哲之さん
SRA社員。かつて環境開発部所属。
From: Noriyuki Soda <soda@sra.co.jp>
To: katsu@sra.co.jp, soda@sra.co.jp
Date: Tue, 1 May 2001 19:50:36 +0900 (JST)
Subject: Re: tezuka-san

現SONY契約社員の石黒さん(元 ishiguro@sra.co.jp)も、ウィンドウシステム
回りを担当していたと聞いたことがあります。もともとは、独自のウィンドウ
システムを作るつもりで作業も始めていたんだけど、そうこうするうちX10が
出て、歌代さん(?)がサクっと動かしてしまい、結局それになってしまったと
かいった話もあったような。

--
soda

[ishiguro-0105090311]

・From Ryuji Ishiguro:石黒隆二さん
元SRA社員。環境開発部所属。
・入江さん:ソニーの入江英夫(Michael Knight)さん
メールの signature で「戦わないプログラマー」を標榜していた時期があった。 病気のため1999年にお亡くなりになった。
From: Ryuji Ishiguro <ishiguro@sm.sony.co.jp>
To: WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp>
Date: Wed, 09 May 2001 03:11:05 +0900
Subject: Re: 歴史的コンピュータに関する昔話

こんばんは。 お久しぶりです。

添付の資料、とても興味深く読ませていただきました。 なつかしい名前や現在
の消息 (?) が知れてとても面白ろかったです。

> > 現SONY契約社員の石黒さん(元 ishiguro@sra.co.jp)も、ウィンドウシステム
> > 回りを担当していたと聞いたことがあります。もともとは、独自のウィンドウ
> > システムを作るつもりで作業も始めていたんだけど、そうこうするうちX10が
> > 出て、歌代さん(?)がサクっと動かしてしまい、結局それになってしまったと
> > かいった話もあったような。

NEWS にも採用されたディスプレイボード (例の白黒の縦長の) を使ったハード
とソフトの開発の時の話しだと思います。 それ自体は NEWS 以前のものなので
直接は関係ないのですが。 ハードの担当者 (堀さん他) はそのまま NEWS も担
当されていたと思います。 他にもサイオス (?) だったか SRA が担当した当時
のワークステーションがありました。
(そういえば、亡くなった入江さんが X の NEWS への移植をしていましたね。)

今、私がソニーでいる部署は昔 NEWS のハードとドライバやソフトをやっていた
部署で、部門長も NEWS の最初の 11 人衆 (7 だったか?) の一人です。 今は
みな VAIO を使ってますが。。 社内ではたまに NEWS がお払い箱になってうち
捨てられているのも見ますが、まだ現役で動作しているものもあります。
昔話ならばネタはいろいろあるかもしれません。

 -- R.Ishiguro

[tezuka-0105091653](一部編集)

・From Hiroshi Tezuka:手塚宏史さん

NEWS-OS 4.2 の C ヘッダファイル <sys/cmap.h> をみると、 "H.Tezuka"というコメントが入っているところが2箇所ある。 ヘッダファイルに個人名が記されているのは極めて異例で、この部分だけである。

UNIX Magazine (ASCII)の SONY NEWS の広告では、1989年8月号、9月号で、 手塚さんが以下のように紹介されている。 (NEWS 開発チームの林さんによる文章とのこと)

1957年生まれ。いまや神を超えた存在。 息をするようにプログラムし、 「速い、短い、バグがない」をモットーとして、 誰にでも丁寧にアドバイスしてくれる。 大食のわりに太らないのは、エネルギーがみんなソースコードになるからとか。 いまだに自宅に帰ることは滅多になく、 アパートはカビさえ生えない不毛の地と化しているそうな。
From: Hiroshi Tezuka <tezuka@omnisci.co.jp>
To: WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp>
Date: Wed, 09 May 2001 16:53:44 +0900
Subject: Re:  歴史的コンピュータに関する昔話

渡辺さん、
オムニサイソフトウエアの手塚です。

面白いお話を送っていただきありがとうございました。
大変懐かしく読ませていただきました。

せっかくなので、一部だけコメントさせていただきますと、
#NEWS の生産も完了したことですし、もう時効でしょう。

[OSB2009]
情報処理学会の展示会に出展されていたのは最初の試作機で、NWS-800 などの
形になる前のものです。
フロントパネルに「Σstation」と書かれているのが、当時の状況を物語って
います。
今でも動く状態で保存されているのが信じられないくらいです。

[OSB2023]
初期の NEWS に IOP が付いていたのは、設計(1986)当時には MC68020 用の
DMA コントローラが無く、今のように比較的簡単にゲートアレイを起こせる状
況でもなかったので、主に SCSI の I/O を IOP のプログラム転送でやらせる
のが目的でした。
最初に設計方針を決める合宿で「その方がおもしろいから」という理由で決ま
りました。

IOP には簡単なリアルタイムモニタを作って載せていたのですが、プロセッサ
が2個あることや、プログラム転送にちょっと技巧的なテクニックを使ったた
めに、ソフトグループの仕事が増えたのは言うまでもありません。

[OSB2028]
NWS-1800, 3800 は MC68030 を IOP に使っています。
IOP 側のリアルタイムモニタは MC68030 の MMU を使うようにしたり、CPU 側
の Unix カーネルとメッセージベースで通信するように全面的に書き換えまし
た。
最初の /iopboot は通信にメモリ上の固定領域を使っていたので、拡張性など
に問題がありました。
確か /mrx (Message based real-time extension だったかな?)とかいうのが
あるはずです。

手塚
職場:tezuka@omnisci.co.jp
自宅:*********************

[utashiro-0105100411](一部編集)

・From: utashiro@iij.ad.jp: 歌代和正さん
NFS、情報セキュリティ、The Internet の基盤技術などの専門家。 4.4BSD のコードのうち、SONY NEWS-34xx(MIPS R3000) 用を担当した。 世間一般では fep の作者として、 あるいは jcode.pl, a2ps, mg などを書いた perl hacker として有名。
・松尾さん:松尾正敏さん
SRA社員。
James Gosling
Gosling Emacs, NeWS window system, そして Java の設計の中心人物。
・北谷さん:情報求む
・石原さん:石原素子さん
元SRA社員。
・山田君:山田正樹さん
元SRA社員、環境開発部。 現在メタボリックス代表取締役。
From: utashiro@iij.ad.jp
To: katsu@sra.co.jp
Date: Thu, 10 May 2001 04:11:18 +0900 (JST)
Subject: Re:  歴史的コンピュータに関する昔話

From: WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp>
Subject: Re: 歴史的コンピュータに関する昔話
Date: Tue, 08 May 2001 11:28:39 +0900

> 私 WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp> いはく
> > その部内のメーリングリストで、Sony NEWS の開発裏話や
> > 昔話が1か月ほどの間続きました。
> 
> これを読んだ曽田哲之 <soda@sra.co.jp> 君が、
> 
> >現SONY契約社員の石黒さん(元 ishiguro@sra.co.jp)も、ウィンドウシステム
> >回りを担当していたと聞いたことがあります。もともとは、独自のウィンドウ
> > システムを作るつもりで作業も始めていたんだけど、そうこうするうちX10が
> > 出て、歌代さん(?)がサクっと動かしてしまい、結局それになってしまったと
> > かいった話もあったような。
> 
> といって、歌代さんに確認してもらいたいと語っています。当時の事情を
> ご存じですか?確認ができたら件の文書に追加しようと思っています。

ちょいと前の話から始めます。1986年の初め頃に、SRA が Sun の NFS の販売
総代理店になるという話がありました。多分、村井さんが持って来た話だと思
う。とにかく、僕が技術担当者にされたので、まず Sun に行って説明を聞く
ことになって、1986年3月に、村井さん、営業の栗山さん、僕の上司だった松
尾さんと一緒に Montain View の Sun に1週間の出張に行きました。

# ちなみに、これは僕にとって生まれて始めての海外旅行経験でありまして、
# 今でこそ少しは英語を操ることができるようになりましたが、それまでは英
# 会話なんて一度も経験がなくて、外人を肉眼で見るのもほとんど初めてとい
# う状況でした。

NFS の話は置いといて、なぜか松尾さんが NFS とは全然関係ないエンジニア
のところに行くと言い出したのでついて行った。その時訪れた Pete Ma は、
僕が SRA に入社する前年の1982年に、Bob Schulman の夏休みのピンチヒッター
として1ヵ月程 SRA に居たことがある台湾出身アメリカ育ちのエンジニアです。
Pete は、UCB を卒業後 Washingon 大学の大学院を出た後、当時 Xerox PARC 
からSun に移った Warren Teitelman の下で働いていました。

その時の目的や背景がどうだったのかは松尾さんに聞かないとわかりませんが、
とにかく Pete Ma の所にいって、X10 のマニュアルをもらって来ました。僕
は聞いていなかったけど、おそらく NEWS の話はすでに具体的になっていたの
でしょう。

# 後になって驚いたことに、この X10 のマニュアルには James Gosling の直
# 筆のサインがあります。当時 Gosling は、CMU の Andrew プロジェクトの
# 後 Sun に引き抜かれて NeWS の設計をしていたはずです。つまり、X に対
# 抗するウィンドウシステムを開発しているところに行って、X のことを教え
# ろと言って来たわけで、今から考えると随分と失礼な話です。あ、実を言う
# と、そのマニュアルは僕がまだ持ってます :p。

マニュアルと一緒に X の入手法も聞いて来て、帰国してから X10 のテープを
入手しました。最初は X10R2 だったかも。僕が NEWS の開発に入ったのは、
多分7月頃ではないかと思いますが、当時はまだ NEWS という名前はなくて 
ICKI というプロジェクトコードで呼ばれてました。「一気に作っちゃえ」と
いう意味だったみたい。7階に秘密の蛸部屋が作られて、そこに最初の試作機
10台のうちの2台が運び込まれて、10人余りのスタッフが缶詰にされました。
その辺の状況は皆さんが書いている通りです。

# ちなみに、このプロトタイプは 799 ではなく、NWS という製品コードでも
# なく、プロジェクトコードから ICK-001 みたいな番号がついていたはず。
# すべてのチップがソケットで実装された、とても高そうな基板でした。Sony 
# のロゴがある四角い部分は、製品版では、はめごろしになっているけど、試
# 作機は取り外せて、裏にリセットボタンがあった。正方形なので、90度回転
# することもできた。

蛸部屋では、北谷さんや石原(♀)さんなどがウィンドウシステムの設計をして
ました。石黒はそこにいたのかな。僕は筏井さんと一緒に WOS という OS を
Sun2 上で開発するプロジェクトが終った後で、その時使っていた Sun2 に X 
をインストールして、いろいろ試していたんだと思います。で、新しいウィン
ドウシステムを作るのもいいけど、とりあえず X も乗せちゃってもいいじゃ
ん、というくらいの気持ちで検討を始めただけで、新ウィンドウシステムは必
要ないという積極的な意志は無かったと思う。そういえば、そっちのチームに
は、当時注目し始められていた PostScript を紹介した記憶があります。NeWS 
の話は知らなかった。

ともかく、ゲリラ的に ICKI に X を乗せようということになったのですが、
開発機は2台しかありません。昼間はアプリケーションの移植やデバイスドラ
イバの開発をしてるし、なにしろゲリラなので表だって主張もできないので、
僕は夜中に会社に行って作業してました。1986年8月頃のことです。2週間くら
い Sun の上でコードを読んで、次の2週間は夕方出社して、朝9時頃まで作業
して、出社してくる社員と入れ違いに帰るという生活を続けました。

# わかると思うけど、7階は日中屋上から蓄積した熱が天井から放出されて、
# 地獄のように暑いので、短パンとTシャツに着替えて仕事してました。今だ
# から言うけど、冷水機の中に買って来た烏龍茶のペットボトルを入れて冷や
# してました。洗ってから入れてたかなあ...?

最初の1週間でなんとかコンパイルできて、画面に何かが表示される状態になっ
たと思います。その間、昼間に筏井さんや矢吹君たちがディスプレイドライバ
を開発していて、毎日新しい機能が実装されて、それを使ってプログラミング
して、朝になると必要な要求を出して帰るという感じでした。このころは、シ
ステムも安定していないくて Makefile の最後には必ず sync が入ってました。
暇になると sync と打ってしまう癖がついたのもこの頃。コンパイラにもバグ
があったので、うまく動かなくても何が悪いのかよくわからなかった。

最初に表示されたのはルートウィンドウでしたが、その時は画面を1枚塗りつ
ぶすのに30秒くらいかかったんじゃなかったかな。その後、チューニングして、
Sun より速くしたけど。次に表示されたのは、マウスカーソルでしたが、これ
は × に見えるはずなのに ◇ と表示された。バイトスワップしてたのね。も
う一つ悩んだのは、Sun と NEWS でビデオメモリの 0/1 の意味が逆で、白黒
が全部逆に表示されたことです。でもメモリ上の意味は同じなので、単純に結
果を逆にすればいいというものではないのです。X10 の時代には、その辺を吸
収する仕組みはまだ入ってませんでした。結局、一晩ベン図とニラメッコして 
bitblit の変換テーブルを作ってなんとか解決しました。そんなプログラムは
初めてで、誰も相談できる人がいなかったので、結構苦労したのです。

この頃は、まだマウスドライバもキーボードドライバが出来ていなくて、キー
ボード入力には getchar() を使ってました。これも最初は結構悩んで、結局
何かの文字が入力されると、それに相当するキーが押されて、リリースされた
というイベントを無理矢理発生させるという、ひどいことをやってました。
そんなこんなで、多分8月の終り頃には、なんとか見せられるものが出来てた
んだと思います。

# ちなみに、僕は朝になると三鷹のアパートに帰るんですが、真夏の昼日中に
# 布団で寝てるのも馬鹿らしくて、ベランダにマットを出して寝てたので、極
# めて不健康な生活をしているにもかかわらず、真っ黒に日焼けしてて妙なも
# のだった。

僕は、その後 NFS の仕事が本格的になったので、酒匂さんにそのとんでもな
いプログラムを放り投げて、10月から山田君と2人で Sun に行ってしまったの
でした。

--utashiro

[masaki-0105162129]

From: YAMADA Masaki <masaki@metabolics.co.jp>
To: WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp>
Date: Wed, 16 May 2001 21:29:03 +0900
Subject: Re: 歴史的コンピュータに関する昔話

山田@メタボリックスです。

At 1:43 PM +0900 01.5.10, WATANABE Katsuhiro wrote:
>山田さんお久しぶりです。独立なさったんですね。

独立なさったというよりは単なるフリータです:-)

>歌代さんもコメントを寄せてくださったのですが、そこに山田さんの
>お名前が出て来たのです。そこで、ご興味があるかどうかわかりませんが、
>一連のメールをまとめた HTML 文書を添付してお送りしておきます。
>ご感想や意見、誤りの指摘、昔の思い出話などがありましたら、*是非とも*
>メールをくださいまし。

大変面白く拝見しました。
大胆かつ無謀な試みしてますねー。
何かまとまったものができたあかつきには是非また見せてください。

僕はSRAではほとんどずっと「仕事さぼり中」だったんですが...

所属は環境開発だったのですが、入社してしばらくは桜井麻里さんともども
開発6部の手伝いに行かされていました。今はなき三番町のオフィスです。

当時は環境開発の新人がそのころ4台あったVAXのダンプをやらされていたんだよね。
隔週の金曜日の夜は終電ぎりぎりまでダンプ、時々はVAXの
重いディスク・パックを抱えて三番町と本社を行き来していた。
それでも容量はたぶん数十~数百MBで、ショックを与えると色が変わる
センサまでついてました。

戻ってきて、WOS(Workstation Operating System)に参加しました。
筏井さんが頭で、歌代さんと僕、最後に少し石曽根君が入ったかな。
SUN上に自前のOSを作るプロジェクトです。スポンサーはIPA。
僕はファイル・システムを作りました。
そのとき作ったのはUNIXのファイル・システムに近いものでしたが、
最適なi-nodeアロケーションとか、視点によってパスが異なって見える
とか、次のバージョンで実現する(はずの)ネタはいっぱいあったんです。
WOSの「次」はなかったんですが、その続きは(違う形で)ソニーCSLに行ってから
OZU、独立してからTHInKSという形で実現しました。

筏井さんは、SystemIIIだったかBSD4.1だかのソース・コードをすべて
印刷して通勤の電車の中で全部読み切ったという、当時のSRAでも
伝説のハッカーです。

WOSが終わって暇なときに、StallmanのGNU宣言がDDJに載っているのを
見つけて、日本語にしてJUNETに流しました。
本社5階の廊下にも印刷したのをぶら下げていたのですが、すぐに
なくなってしまった。
たぶんこれがGNUが日本で紹介された一番始めだと思います。
しばらくして各種ソフトウェア関係誌にGNU宣言が載りましたが、
みんなそのバージョンを下訳にしていると思います。
1985年頃の話ですが、そのときはもう1年くらいでOSまでできる、
LISPベースのウィンドウ・システムとかいう話だったんだけどなー:-)

その後は、出荷前NEWSのテストとかプログラムの静的評価ツールとか
ちょこっとした仕事以外はほとんど野放し状態でした。
UNIXカーネル、TCP/IP、GUI、オブジェクト、Mach, GNU C++ ...
本当に仕事とはまったく関係なくいっぱい勉強させてもらいました。

このころ7階にまだOSが0.7だか0.9だかのNeXTがあり、
UnixにもMacにも不満が募っていた自分には魅力的でした。
結局独立してからNeXTStepデベロッパーになってしまったんですね-。

他に遊んでる人間がいないんで、NFSの仕事で歌代さんと何ヶ月かMt.ViewのSunに
行ったり、ソニー・コンピュータ・サイエンス研究所に出向で行っているうちに
SRAには戻らなくなってしまいました。
環境開発では余っている人間だったとはいえ、一部にはご迷惑をかけたことでしょう。

---
山田正樹, (有)メタボリックス
259-0111 神奈川県中郡大磯町国府本郷576-8
tel: 0463-60-2234 fax: 0463-60-2266
moblie: 090-8347-9605
http://www.metabolics.co.jp/

[pon-0105170156]

小野さんは、NEWS 発売当初から自宅に NEWS-830 を置いていた。 (see. <536@sravb.sra.JUNET> ) 1987年当時、自宅に Workstation を置くというのは非常に稀な話である。 NEWS-830 は、当時の Workstation としては激安とはいえ、 定価が275万円であった。 それに併せて、 キーボード、マウス、ディスプレイ、ストリーミングテープドライブも 購入したとのこと。 ただし、SRA社員割り引きがいくらか適用されたそうである。

From: Tetsuo Ono <pon@rpm-2.rpm.or.jp>
To: katsu@sra.co.jp
Date: Thu, 17 May 2001 01:56:28 +0900
Subject: Re: 歴史的コンピュータに関する昔話

こんにちは、小野です。

渡邊さん、メール、どうもありがとうございます。なかなか、なつかしい文書
ありがとうございました。

私は、SRA 時代には、ほとんど客先に行ってたもんですから、社内の動きは、
あまり知らないこともあり、けっこう興味深く読ませてもらいました。

ちなみに、うちでは、まだ NEWS-1450 が現役で、店の隅の方に置いています。
LPガスの管理ソフトが動いています。(もうそろそろ、使わなくなりそうです
が)

このソフトは、X のクライアントですが、もともとは、NEWS-830(X10R4) で開
発したもので、NEWS1450 の X11R4 のプロトコルに対応していません。そのた
め、プロトコル変換サーバ x10tox11 を経由して使っています。その 
x10tox11 も、X11R5 のディストリビューションから消えているものです。

10年近く前、三浦豊樹、あさ子夫妻が、私んちに遊びに来られたことがありま
すが、その時、店で NEWS のモニタが見えたので、私のうちに間違いないと確
信されたそうです :-)

SRAで開発していた、M-BOX, D-BOX といったところは、私の同期の岩田成康
(n-iwata@opentech.co.jp)さんが、詳しいのではないかと思います

==========================================================================
                                                                  小野哲男
                                                  RPM インターネット事業部
                                       酒・LPガス・ソフトウェア の小野商店
                                                       pon@rpm-2.rpm.or.jp
                                   HomePage: http://www.rpm.or.jp/home/pon
                                 愛媛県北宇和郡津島町岩松863-1(〒798-3301)

[mari-s-0105170225]

・YGT-100:ヤマハ製のグラフィック端末
1983年7月発売。 フレームバッファ数によって、YGT-100A, YGT-100B など3モデルあった。 解像度 640x480。 上位機種の場合、10 plane 持っていて 1024 色が同時表示可能だった。 外見は、ディスプレイ・本体一体型であったらしい。 価格は上位機種で100万円程度。
情報提供:ヤマハAV・IT事業部通信機器開発室 田中和郎さん
・VAX の 0 番地に 0 が入っている
これが NEWS(当時は 68020 を使った機種のみ)では、 何か怪しい 0 でない値が入っている。 ちなみに RISC-NEWS では、0 番値の読み込みは SIGSEGV を引き起こす。
・若田さん:若田靖さん
SRA社員。
・桜井清蔵さん
元SRA社員。現在 Sun 勤務。
From: SAKURAI Mari <mari-s@kk.iij4u.or.jp>
To: WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp>
Date: Thu, 17 May 2001 02:25:33 +0900
Subject: Re: 歴史的コンピュータに関する昔話

かっちゃん、お久しぶりです。

現在充電中の桜井麻里です。
なんだかとても懐かしい話をしていますね。
では、せっかくなので、私も昔話を少々。

[masaki-010516129] にて山田正樹さん
> 何かまとまったものができたあかつきには是非また見せてください。

同感です。まとまったら、また見せてください。> かっちゃん

> 所属は環境開発だったのですが、入社してしばらくは桜井麻里さんともども
> 開発6部の手伝いに行かされていました。今はなき三番町のオフィスです。
> 当時は環境開発の新人がそのころ4台あったVAXのダンプをやらされていたんだよね。

このダンプをやらされていた新人というのは、実は技術本部(環境開発グループ
と技術開発グループがあった)に配属された男性だけで、女性の新人は免除され
ていました。だから私も免除。いまだったらこういう男女差別もないかな。それ
以前に、ダンプでテープ交換をするために待っているということ自体がないです
ね。:-p

私の最初の配属先は山田さんと違って技術本部の技術開発グループというところ
だったのですが、配属されて最初の3か月ほどは、山田さんと一緒に開発6部の
手伝いをしてました。やはりツール作りでしたね。
そのころ私は、M-BOX というツールの評価を CDAP とかいう性能評価用のツール
(CDAPはJSD(今のITCの前身)の三嶋さんという方が作ったツールだったような)
を使って評価するとかいう仕事もちょっとだけしていました。
M-BOX は当時高価な YAMAHA の YGT-100 とかいうカラーのグラフィック端末で
しか動かなくて、それだけのために、その端末を使っていました。今みたいに
汎用的なグラフィックスルーチンなんて無い時代のことですからね。

ツールが端末に依存してしまうというのは当時(1984年ごろ)では普通だった
ような気がします。開発6部の仕事の手伝いのすぐ後に関わった Zodiac 
でもそうでした。Zodiac は、某社のオフコン用の事務処理アプリケーション
の開発を支援するのが目的で、帳票や画面のレイアウトを UNIX 端末で行えば
COBOL のソースコードが生成されるという当時としては画期的なツールだった
のです。その帳票は某社専用のラインプリンタ用のもので、いわゆる全角文字の
印字幅が半角文字の印字幅の 1.5 倍(!)というものだったし、画面は某社専用の
端末のもので、ドット数が当時としては珍しいもので、それにあわせなければ
なりませんでした。いまだったら、そんなことを気にしなくても良いのだろうけど、
当時は大変なことでした。結局、グラフィックライブラリやウィンドウシステム、
端末ホスト間の通信システム等、必要な基盤を全部プロジェクトで自前で作成して
しまったので、ツールが端末に依存してしまったのでした。
Zodiac は、後に SONY NWS800シリーズの X10 に移植し、1986年のデータショウで
デモしましたけど、それはそれで大変でした。そういえば、依存していたものは
端末だけでありませんでした。VAX の 0 番地に 0 が入っていることとか、
バイトスワップしていたこととか、ほかにも依存していたものはありましたね。
細かいことは忘れたけど。

Zodiac は私の SRA 社員時代の中でも最も印象に残っているプロジェクトです。
結局、3年間以上関わっていたということもありますが、新人で何もわからない時
から一通りのことを学ぶことができたという意味で大きかったです。
あのプロジェクトのおかげで、DBMS の仕組みが良くわかったし、UNIXホストと
MS-DOSパソコンとの通信の仕組みもわかったし、画面に表示される仕組み(当時
の仕組みだけど)もわかったし、印刷されるまでの仕組みもわかったし、
コンパイラの仕組みもわかったし、バージョン管理やリリース管理の大切さも
わかったし、いろいろわかりました。必要に迫られて、自前でいろいろなものを
開発したからでしょうね。もっとも、私が参加したのは基本設計が終わってから
最後までだったので、ほとんどは他人が書いたソースコードを見ただけ状態ですが、
それでもソースコードを書いた方々は、筏井さん、黒須さん、若田さん、桜井清三
さんをはじめ、すばらしい方々が多かったので、見て改良したり移植したりする
だけでも本当に勉強になりました。

Zodiac というのは SRA 社内での名称でして、納品したものは、リコーシステム
開発(当時)の方が R-SPF という名前でソフトウェアシンポジウムにも発表して
いますし、R-SPF という名前では日経コンピュータ(1985年ごろ)にも出ています。
リコー以外にも販売しようというもくろみはあったようですが、結局、売れません
でした。納品した後の R-SPF は、Zodiac とは別の歩みを続け、しばらくの間、
改良を重ねながら社内に使われていました。私がサポートをしていた間だけでも、
向こうの担当者の手により、いろいろと改良されていました。

そういえば、山田正樹さんとは、あの新人のプロジェクト以来、お仕事を一緒に
したことが全然なかったのですが、結構印象に残っています。妙な縁ですよね。:-)

とりあえず、この辺で。

----
桜井 麻里 <SAKURAI Mari>                mailto: mari-s@kk.iij4u.or.jp

[mari-s-0105170326](一部編集)

・伊藤正次さん
SRA社員。現在 Linux グループ部長。
VT100
DEC(現compaq)の端末。 端末の標準といってよいほど普及した。
・文字が緑色のアンリツの端末:DDY-86B
キーボードディスプレイ一体型。漢字表示はサポートしていない。 1989年度SRA入社の渡邊克宏は、入社直後の新人研修でこの端末に向かい、 NEWS-OS 2.2(ShiftJIS サポート付きの 4.2BSD)上で Pascal を使った。 新人研修用ということは、 この時点でもう開発部隊では利用していなかったことがうかがえる。 アンリツでは 1995年製造中止・2000年1月メンテナンス完了とのこと。
情報提供:アンリツ株式会社 広報宣伝部 石井様
From: SAKURAI Mari <mari-s@kk.iij4u.or.jp>
To: WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp>
Date: Thu, 17 May 2001 03:26:00 +0900
Subject: Re: 歴史的コンピュータに関する昔話

かっちゃんへ

細かいことですが、間違いに気づいたので修正です。

In message "Re: 歴史的コンピュータに関する昔話" at "Thu, 17 May 2001 02:25:33 +0900",
SAKURAI Mari wrote...
 >
 >[masaki-010516129] にて山田正樹さん
 >> 所属は環境開発だったのですが、入社してしばらくは桜井麻里さんともども
 >> 開発6部の手伝いに行かされていました。今はなき三番町のオフィスです。

開発6部ではなくて開発5部でした。当時の開発5部は主にコンピュータメーカ
のOS周りの仕事をしていることが多かったと記憶しています。まあ、当時の
開発5部も6部も制御系のシステム開発を担当していたという点では同じだった
と思いますが。

蛇足ですが、
私と山田正樹さんが手伝いに行った5部のプロジェクトのリーダは
当時入社3年目だった伊藤正次さん。伊藤正次さんの他は、山田さんと
私を含め新人3人で、期間も短く、開発量も少ない、小さなプロジェク
トでした。客先での動作確認時以外は、三番町で仕事をしていました。
開発に使っていたホストは VAX780 で、OS は、日本語の使えない 4.1 
BSD、端末は私は M-BOXを動かすという名目で YGT-100 だったけど、
他の人は文字が緑色のアンリツの端末か グレーのVT100でした。
いずれにしても二色。そういう時代でした。

以上

----
桜井 麻里 <SAKURAI Mari>                mailto: mari-s@kk.iij4u.or.jp

[hisasima-0105171553](一部編集)

・From: Hiroyuki Hisashima:久島広幸さん
元SRA社員。現在 IIJ 勤務。
・Annexターミナルサーバ

ターミナルサーバとは、 シリアルポートを多数備える一方で LAN につながり、 シリアルポートにつながった端末やモデムから LAN 上の機械へ login できるようにしたもの。 Annex に限らず多くのターミナルサーバの実体は、 ユーザ向けコマンドを rlogin と telnet だけに制限した Unix マシンである。 Annex II は、SRA四ツ谷事業所で 2001 年 3月まで稼働していた。 Annex III はいまだSRA内で稼働中である。

Annex は流浪の歴史を持つ。 最初は Encore 社が売っていたが、その権利を Xylogics 社に売り渡した。 Xylogics 社は後に Bay Networks に買収され、 Bay Networks 時代に Annex は Versalar と改名される。 さらに、Bay Networks 社は Nortel (Northern Telecom) に買収され、 現在は Nortel の子会社 Nortel Networks が Versalar を扱っている。

ターミナルサーバーは過去の遺物ではない。 PPP が出現するとただちに対応がなされ、モデムが組み込みになって、 今は Internet Service Provider の「アクセスポイント」として活躍している。

・sran117
SRA でのホスト名命名の習慣は、
sra + 機種を表す記号 + 通し番号
というものである。 SONY NEWS には機種を表す記号に n が使われている。 例えば sran117 の場合、 117 番目に SRA にやってきた(ネットワークにつながった) NEWS ということになる。 さてこの通し番号はどこまで伸びたかというと、 2001年7月現在 sran426 というホスト名が存在する。 ちなみに srapcxxxx は、1990 年代に 1000 を越えていた。
・インスタントコーヒー 114,117
2001 年現在もUCC から発売中
・生沼さん:生沼達哉さん
元SRA社員。
・「tiny-diskless の kernel 作成においては、克ともメイルのやり取りを重ねたよね。」
メールではなく、SRA 社内のネットニュースでの議論と思われる。
・conditional symbolic link

NEWS-OS の symbolic link において、 環境変数の値によって link 先を変えられるしくみ。 以下のような型式をしている。

srasva% ls -l sps 
lrwxrwxrwx   1 katsu    mmb            34 Jul 29  1993 sps -> $cputype==mc68030?sps.68030:sps.68020

上の意味は、環境変数 $cputype が mc68030 の時は sps.68030 を参照し、 それ以外のときは sps.68020 を参照するというものである。

conditional symlink の用例を一つ挙げれば、 複数の機種がつながったネットワーク上でファイルを NFS で共有する場合に、 NFS クライアント側が自アーキテクチャに応じて適切に環境変数を設定すれば、 アーキテクチャに依存するファイルを適切に参照することができる。

conditional symlink の問題点に関しては、 NetNews の記事 <3906@srava.sra.co.jp> を参照。

From: Hiroyuki Hisashima <hisasima@iij.ad.jp>
To: katsu@sra.co.jp
Date: Thu, 17 May 2001 15:53:12 +0900
Subject: Re: 歴史的コンピュータに関する昔話

On: Mon, 14 May 2001 18:13:39 +0900
WATANABE Katsuhiro <katsu@sra.co.jp> said:

 > ご興味があるかどうかわかりませんが、一連のメールをまとめた HTML
 > 文書を添付してお送りします。ご感想や誤りの指摘、あるいは昔話が
 > ありましたら、是非ともメールをくださいまし。
 > 
 > 私では古い話がわからない所も多くて、なかなか思うように編纂がまま
 > なりませんでした。

いましがた全部読み終わりました。とても楽しかったです。なんか本当にいい
時代だったような気がするのは、自分が歳をとったからですかね。それとも最
初に自分が勤めた会社の話だからでしょうか?

私は、実際の icky -> NEWS の一連の開発には携わっていなかったので、そこ
ら辺の内実についてはよくわからないのですが、確か歌代さんちの本棚に、そ
の Gosling のサイン入りのマニュアルがあったのを目撃したような。あと、
時期は確かそのころだったと思いますが、ダイアモンドホテルで Gosling に
よる NeWS のプレゼンテーションもあったと思います。スンゴク多勢の観客
(?)が来ていたことを覚えています。

当時私は開発5部(だったか、システム5部だったか…はたまたシステム開発
5部だったかなぁ)にいて、某メーカの WorkStation 関係の仕事をしていまし
た。それが実は Sigma 仕様の、いわゆる Sigma Work Station を作り上げる
という仕事でして、岸田さんが喧嘩したのに実際の現場ではそういう仕事をし
てしまうというビジネスの世界の非情さに心打たれました :-)

で、NEWS の開発秘話ではないですが、それが製品となったあとの話をば。

まず、我々の手元にも何台か来ました。そして僕がそれを触れるようになった
ときの感覚は、「シメタ、これで root になれるじゃん」でした。やっぱ
UNIX って root にならないと面白くないじゃないですか。ま、とにかくそん
な感じで気分が高揚したのは覚えています。でもやはりその当時では1台の
NEWS をみんなで共有して使っていたわけで(例えば Annex とかいうターミナ
ルサーバから login するとかね)ちょっと自分勝手度が低い。

そうこうするうちに、diskless NEWS (711 だったと思います)がでて、それ
を専有できて、再度「シメタ、これで好き勝手に reboot できる」なんて不埒
なことを考えていました。

#私が使っていたマシンは sran117 だったはず。当時インスタント珈琲
#で 117 とか 114 とかいう名前のものが発売された頃で、妙な巡り合わせで
#番号があっていました。SRA の休憩所においてあったと思いますよ。

そういう経緯で手元に NEWS が来てからは、実際にいろいろ触れたことが本当
にためになりました。楽しかったなぁあの頃。無垢だったし。石井さんや生沼
さん達と YP (当時はそう読んでいました。NIS なんていわなかった)やって
たりしてね。

まあ、そんなこんなでいろいろ学んだので、その御礼もこめて(?)texinfo
(当時はもちろんブラウザなんてものはないし)なんかで

@comment ============= introduction node ===========================
@node    introduction, overview, , Top
@comment node-name, next, previous, up
@unnumbered introduction

本ドキュメントは、SONY NEWS 711 - diskless machine の boot に関する
解説をもくろんだ書きものである。想定している環境は、NEWS OS 4.0 以降
のバージョンである。

思えば筆者の回りでは、NEWS OS 2.2x あたりから、この NEWS 711 を導入
し始めたわけだが、configuration の方法も随分と様変わりしてきた。最初
は、server となるマシンの disk 上に、その raw device を指定して物理
的に 711 用の disk partition をこしらえていた。これは、サーバが使用
できる disk 容量を減らすものでもあった。次に、これではあまりに面倒だ
からと、サーバのマシン上にファイルとして 711 のイメージを置き、それ
を rd 経由でアクセスするようにした。その時に、711 の cpu の負荷を軽
減する目的で、『tiny diskless』という機能を限定した UNIX system のも
のも作った(オリジナルのアイデアは栗原さんのものである)。ひとことで
言えば、必要のない process を起動せず、process が swap out されるこ
とがないことを第1の目標とし(なぜなら、swap out, swap in が network 
で繰り返され過ぎると途端に 711 の反応がのろくなるからである)、次に 
disk 使用量を極力少なくするということを目標とした(いつも慢性的な 
disk 不足でもあったわけで…)。この tiny diskless は、使用方としては
ほとんど X 端末に近いものとなっている。

そして、NEWS OS 4.0 以降になり、NFS での /, swap の使用が可能になっ
た。随分と変わってきたものである。NFS になったとはいえ、711 は、ROM 
が tftp をサポートしていないため、boot sequence において rd を使わざ
るを得ない。それゆえ、configuration において、まだ若干の面倒が残って
いる。その方法をまとめる意味でも、本稿を書き始めたのである。今後(不
幸にして)711 のマネジメントなどを行なうはめになる人の何かの参考にな
れば幸いである。

@comment =============== overview node =============================
.....

なんてものも書かせていただきました(まだ SRA のどっかにのこっているか
なぁ。たしか sra.news か何かに投稿したはず。でももう時代遅れのペーパだ
ね)。この tiny-diskless の kernel 作成においては、克ともメイルのやり取
りを重ねたよね。

あと最後に。NEWS の conditional symbolic link にはやられましたね。なん
かいっつもそこで引っ掛かったような気がする。

その他、大塚 network ブロードキャストストーム事件(これは直接には NEWS
は関係ない)とか、133.137.0.0/16 への移行時の NEWS YP 無反応事件とかも
ありましたねぇ。

あ、今思い出した。なんか、初期の NEWS 製品で、ケーブルをつなげたら(シ
リアルだったか、パラレルだったか忘れましたが)火がでた、という噂があっ
たけど。このネタは歌代さんが詳しいはず。

-- hisasima

[LSG-all:287](一部編集)

・本社の7階の冷水器
[utashiro-0105100411]において PET ボトルを冷やしていたというものを確認しようとしたが、 現存しなかった。
・Eric van der Poel
元SRA社員。環境開発部所属。現 Netscape 社員。
・GMW(Give me More Windows)
1980 年代後半に京都大学で開発された Window System のひとつ。 Wnn と並行して開発が行われ、融和した環境を提供していた。
From: YABUKI Youichi <yabuki@sranhm.sra.co.jp>
Date: Fri, 01 Jun 2001 00:02:20 +0900
Subject: [LSG-all:287] Re: 歴史的コンピュータに関する昔話

> > 現在本社の7階に冷水器が置いてあるかどうか、どなたか教えてもらえませんか?
> さて,どうしようかな…
LinuxWorld が終わったら見てきましょう.
(でも,どんなやつだったか憶えてないので,当時のものがあるかどうか
判断できないかも.)
もしまだあったら,次は…デジタルカメラで写真を撮ってくれ,かな?

> >   http://sranhm/~katsu/comphist-sra.html#utashiro-0105100411
> なかなか,すごいことになってますね.

「7階は暑い」ですが,屋上に上がって水を撒いていた人も
いたような.
しかし,X の移植が最初そんな非合法活動だったとは知らなかったなぁ.

北谷さんや石原さんはウィンドウシステムの設計をしていたのか.
X のドキュメントを整備しているのかと思ってました.←失礼なはなし.

酒匂さんが X の移植を引き継いだ件ですが,酒匂さんはその当時
7F蛸部屋の住人ではなくて,5階在住でしたが,5階でコードを書いては,
7Fに上がってきて,NEWS のコンソールで X サーバーのテストをするという
のをやってましたね,確かに.

久島さんのメールで,NEWS で,ケーブルをつなげたら火がでたというのが
ありますが,火を吹かせたのは川辺君だったな,確か.
ディスプレイケーブルのコネクタとシリアル(?)のコネクタの形状が
同じで,間違ってさしてしまったという.後の NEWS では,違う形状に
改められました.

後は Erik van der Poel とか, GMW を NEWS に移植した西村君あたりの
コメントが取れたら…

# yabuki
# この項自由に使ってOK:-). Open Publication License(!= OPL)にでもしますか.

[nisimura-0106011636]

・From: Toru Nishimura:西村亨さん
元SRA社員、環境開発部。 現在、奈良先端大情報科学センター職員。
・srava
社内システムの枢軸となる機械として各種サービスを提供し、長年活躍した VAX。 日本で最初に企業に導入されたVAX, UNIX マシンでもある (東京大学の石田晴久先生のところに次ぐ)。 このホスト名は、 「sra の "v"ax の 一号機(だからアルファベットの最初の "a")」 というところからきている。

ちなみに、 まだ sravb という Micro VAX 3500 (ASCII Kanji 4.3BSD UNIX) が稼働中で、 営業・プロジェクト管理・庶務向けなどのサービスを提供している。 これも 2001 年 6 月末で Linux on PC に置き換えられる予定。

・土師さん:土師司さん
SRA社員。 永年、社内システムのハード・ソフト・ネットワーク・運営ポリシーなどに全面的に関わってきた人。
From: nisimura@itc.aist-nara.ac.jp (Toru Nishimura)
To: katsu@sra.co.jp
Date: Fri, 1 Jun 2001 16:36:03 +0900 (JST)
Subject: Re: 歴史的コンピュータに関する昔話

召喚呪文に呼び寄せられ参上しました。

当時ドロップアウト直前だった学生生活を一時中断してコンピュータ産業の最
前線に身を置くチャンスを作って下さったのは岸田専務でした。その結果わた
しが環境開発部に席を許されるに至りました。1986 年から翌 87 年ことはよ
く憶えております。

往時を思い出すに今も感慨深いのは、要約すれば「もっと上手にカッコ良くやっ
てやろう」という改善への意欲が「知恵の出し比べ」という競争の形を取って
職場にみなぎってことです。1986 年のわたしにはそれが一番印象的でした。
今の水準からみて圧倒的に貧相な計算機環境を背景に展開する極めて地味な受
託開発という産業局面、その現実と彼らの目指す高みの差を見究める眼力を養っ
た一年間であったように思います。

キーワードの斬新性をセールスポイントに据えるという戦略は SRA 社の伝統
とするところですが、当時ホットと見なされていたのはソフトウェアツールや
計算機利用環境でした。当時五階で並列進行中だったさまざまな開発案件は、
わたしの思い出せる限りにおいて、現実克服を目的に相互に絡みあった意欲的
な試みでありました。

1986 年に始まった「SONY NEWS という現象」とその背景と implication につ
いては、興味深い読みものとしていつかまとめられるべきでないかと信じてお
ります。

語ることは山のように思い出せますがそれは改めてまたの機会に。

皆様の発言への補遺

□ コネクタ形状が同一なため差し間違えると電気的破壊をもたらす結果を導い
   たのは、NWS-830 のビデオコネクタとキーボード・マウスコネクタです。
   わたしも壊しました。後の出荷では不要信号ピン穴を封鎖して間違いが起き
   得ないように対策してありました。

□ 有座さんがお作りになっていた MacIntosh 互換のウィジェットライブラリは
   XDialog と XControl です。驚くなかれ印刷されたドキュメントが今手元に
   あります。XControl は Nov 10, 1986 の、XDialog には Jan 6, 1987 の
   刊行と記されています。

これ(の一部)を使って大友さんの Pigmalion が出来上がりました。IDE
(Integrated Development Environment)の一種です。Mac の look'nd feel 
とは違って見えるように作ってありました。新田さんと、誰だったか武チャン
マンだったかが、冗談で Mac のデスクトップそっくりさんを X10 にインプリ
メントし、皆げらげら笑ってクリックしまくるということもありました。

当時環境開発近傍社員は「ご自慢のツール」誰もがそれぞれ持っていたもので
す。松尾さんの YAT 向け ditroff プレビューア。がんこさんの unicalc。憧
れのレーザビームプリンタ LBP8-AJ2 向けツール群、誰もが一度はマニュアル
片手に何かカッコいい出力が出来ないかと知恵を巡らせた。思い出し切れませ
んが得意技ならぬ得意ツールが多数あったと記憶します。

トラックの荷台に載せられ夕日を浴びながら去って行った srava の最期を看
取ったのは二名、土師さんとわたしでした。合掌…

-nisimura

[nisimura-0106061851](一部編集)

・VAX
VAX各モデルについては、 " VAX Hardware Reference " に諸元や写真がある。
・MV8000
VAX を追って開発された Data General 社の初の 32bit mini computer。 MV8000 の開発過程は、 " The Soul of a New Machine " (邦訳「超マシン誕生」)というドキュメンタリーにまとめられたが、 この本はピューリッツアー賞を受賞した。 DG は 1999 年に EMC 社に買収され、 その一部門となる。
From: nisimura@itc.aist-nara.ac.jp (Toru Nishimura)
To: katsu@sra.co.jp
Date: Wed, 6 Jun 2001 18:51:21 +0900 (JST)
Subject: Re: 歴史的コンピュータに関する昔話

srava は導入当時 VAX11-780 でした。1986 年当時僚機として sravb, sravc
および sravd が機能しており、古参社員は順に一号機、二号機とも呼称して
いました。vb/vc はモデル 780 で、vd は下位機種モデル 730 でした。他に 
Data General 社のミニコンピュータ MV8000 が srama という名で稼働してい
ましたが曰くあって利用者はほとんどいませんでした。

srava は後にプロセッサモジュールの交換により VAX11-785 へアップグレー
ドされその形で退役しました。なお現在 sravb を名乗っているのは、四号機
以降 VAX アーキテクチャ向け開発案件の増加により順次追加配置されたデス
クサイド型 Micro VAX システム群の一台が二号機の退役後に社内システム運
用を引き受けたもので、元は別な名前で呼ばれていました。

srava が平河町 2F 計算機室から撤去されたのは、港北事業所の完成前後おそ
らく 1994 年の夏か秋の頃でなかったかと記憶します。

-nisimura

[yabuki-0106071512]

VT100, VT220
DEC(現 Compaq)の端末。
From: YABUKI Youichi <yabuki@sranhm.sra.co.jp>
To: nisimura@itc.aist-nara.ac.jp (Toru Nishimura)
Date: Thu, 07 Jun 2001 15:12:44 +0900
Subject: Re: 歴史的コンピュータに関する昔話

西村君お久しぶりです.

> srava は導入当時 VAX11-780 でした。1986 年当時僚機として sravb, sravc
> および sravd が機能しており、古参社員は順に一号機、二号機とも呼称して
> いました。vb/vc はモデル 780 で、vd は下位機種モデル 750 でした。他に 
> Data General 社のミニコンピュータ MV8000 が srama という名で稼働してい
> ましたが曰くあって利用者はほとんどいませんでした。
新人研修で使わされました.良く落ちました.
(その他使用機材:ラインプリンタ,VT100,VT220,アンリツの端末...)
後,マシンルームの奥深く,ひっそりと動いていた CEC の
マシンが謎だったな.

> srava は後にプロセッサモジュールの交換により VAX11-785 へアップグレー
> ドされその形で退役しました。なお現在 sravb を名乗っているのは、四号機
                                  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
なぜわかるんだろう:-)
> 以降 VAX アーキテクチャ向け開発案件の増加により順次追加配置されたデス
> クサイド型 Micro VAX システム群の一台が二号機の退役後に社内システム運
> 用を引き受けたもので、元は別な名前で呼ばれていました。
srav? シリーズは,sravi ぐらいまであったような気がする.

> srava が平河町 2F 計算機室から撤去されたのは、港北事業所の完成前後おそ
> らく 1994 年の夏か秋の頃でなかったかと記憶します。
1994 年だと私も本社にいたと思うんですが,↑この辺のことは記憶にないですね.
アイルトンセ名のクラッシュとかワールドカップ米国大会があった
年というのは憶えてるんですが.

# yabuki

[nisimura-0106071529]

中央電子社
CEC8000
国産 Unix マシンの最も初期のもの。1980年4月発表。
以前(2007年2月まで)はここに 「国産初の Unix マシンは東芝 UX300」 とコメントし、CEC8000はこれより後であるかのように書いていましたが、 これは誤りでした。 UX-300は1982年の発売です。
From: nisimura@itc.aist-nara.ac.jp (Toru Nishimura)
To: yabuki@sra.co.jp
Date: Thu, 7 Jun 2001 15:29:57 +0900 (JST)
Subject: Re: 歴史的コンピュータに関する昔話

>> 曰くあって利用者はほとんどいませんでした。
> 新人研修で使わされました.良く落ちました.

不名誉な買い物だったらしいので深く追求するのは避けたかったのです。

> 後,マシンルームの奥深く,ひっそりと動いていた CEC の
> マシンが謎だったな.

八王子に本拠を置く中央電子社の著名な国産 UNIX マシン CEC8000 です。エ
ポックメイキングな優秀機械でした。

>> 以降 VAX アーキテクチャ向け開発案件の増加により順次追加配置されたデス
>> クサイド型 Micro VAX システム群の一台が二号機の退役後に社内システム運
>> 用を引き受けたもので、元は別な名前で呼ばれていました。
>
> srav? シリーズは,sravi ぐらいまであったような気がする.

専用マシンルームを必要とするコンピュータは結局四号機まででした。ソフト
ウェア会社としての SRA 社の、威厳といいますか、名誉ある歴史を飾った
永く記憶されるべきコンピュータだったと思います。

-nisimura

[Seizo.Sakurai-0105150326](一部編集)

・From: Seizo Sakurai:桜井清蔵さん
元SRA社員。現在 Sun Microsystems 社員。
・モントレーのコンファレンス
9th ICSE 87 のこと。
From: Seizo Sakurai <Seizo.Sakurai@eng.sun.com>
To: katsu@sra.co.jp
Date: Mon, 14 May 2001 11:26:52 -0700 (PDT)
Subject: Re: 歴史的コンピュータに関する昔話

渡辺さん、

はじめまして。
おもしろそうな資料をどうもありがとうございます。
あとでゆっくり読んでみます。

SRA が NEWS の開発の手伝いをやってたときは私はもう
SRAをやめていましたが、1987年にモントレーの
コンファレンスで NEWS のプロジェクト・リーダだった
土井さんに NEWS のことなど聞きました。コンファレンスの
あと私はマウンテン・ビューによって SUN のジョブ・インタビューに
行くことになってたのですが、「NEWSは SUN Killer になる。」というような
ことを言われていたのが非常に印象的でした。

SUN に入るとちょうど最初のSPARCマシンのでる直前で
社内ではアップルのマッキントッシュを意識して新しいマシンのことを
スパッキントッシュとかとも呼ばれていました。
「スパッキントッシュは MAC KILLERに」という感じですね。

Seizo Sakurai

[tsutsui-0108012307]

From: Izumi Tsutsui <tsutsui@ceres.dti.ne.jp>
To: katsu@sra.co.jp
Date: Wed, 1 Aug 2001 23:07:46 +0900 (JST)
Subject: Re: 歴史的コンピュータとソフトウェアに関する SRA         での昔話

はじめまして。筒井といいます。

<xujr8uwwll1.fsf@sranhm.sra.co.jp>の記事において
katsu@sra.co.jpさんは書きました。

> SRAオープンソースビジネス部(略称 OSB)の部内メーリングリストで、
> 歴史的コンピュータや過去のソフトウェアプロジェクトに関する議論が
> 行われました。内輪ウケの域を出ないものではありますが、公開が公共の
> 益になると考え、可能な部分を
>     http://www.sra.co.jp/people/katsu/comphist/
> に開示します。

私は NEWS-OS はほとんど使ったことはないのですが、
NetBSD/news68k などというものをやっている関係上
NEWS に関する記載は大変興味深く読ませて頂きました。

感想というほどでもないのですが、いくつか気づいた点が
ありましたのでメールさせて頂きました。

>>> ICKI-001, NWS-799 について

4.4BSD-Lite2 の source の中にある machid.h という file には

> /*
>  * machine id number definition.
>  */
> #define       ICK001  1
> #define       ICK00X  2
> #define       NWS799  3
> #define       NWS800  4
 :

なんて記述が残っています。「ICKI」 の名前については
現 NetBSD/newsmips の port の名前で何かいいものはないかという
議論が(一部で)行われていたころに曽田さんに聞いていたのですが、
想像通り結構な試作機だったのですね。

>>> IOP について

今でもたまに「NetBSD/news68k は NWS-18x0 では動かないのか」
という問い合わせが来たりする(しかしなぜかすべて海外から)んですが、
IOP の作りはちんぷんかんぷんなので毎回「かなり無理です」と
回答していたりします。

> プロセッサ
> が2個あることや、プログラム転送にちょっと技巧的なテクニックを使ったた
> めに、ソフトウェアグループの仕事が増えたのは言うまでもありません。
というのを読むとやはりややこしい作りのようですね。

NetBSD/news68k の移植は NWS-1750 で作業したのですが、
これはかなり素直な作りのマシンで、参考になる資料として
NEWS-OS 4.2.1 のバイナリと 4.4BSD-Lite2/news3400 の
ソースしかなかったのにも関わらず、 1月ほどで /bin/sh が
起動するところまで持っていけました。kernel printf が
初めて動いた日の感動は今でもよく覚えています。

ただ、NWS-17x0 の発売が NWS-18x0 の発売よりも後だというのを
知った時はちょっと意外でした。

>>> NWS-3450 について

NWS-3450 というのは私も聞いたことがないのですが、リストにない
NWS-1530, NWS-1580, NWS-3250, NWS-3850 といったような機種は
海外向け版として存在していたようです。上述の machid.h には
他に NWS-1760 や NWS-1510 といった記載もありますが、
どこまで実在したのかはわかりません。

ちなみに NWS-1530 はイタリアの方から、 NWS-1580 はドイツの
方からの問い合わせでした。ドイツからは、大学で大量に購入していた
NWS-1750が廃棄されたので…、などという話も聞きました。また
U.S.からは NWS-831 や NWS-1860 などの問い合わせがありました。
Sony history のページでは海外での販売は苦戦したとありますが、
それなりに売れていたところもあるようです。

ちなみに NetBSD/news68k に関する問い合わせは海外からのものが
ほとんどで、国内からの問い合わせは今まで 1件しかありません。
それだけ NEWS-OS の出来がよかったということなのかもしれません :-)

あと、 NWS-5000TG については NEWS is NET WORK STATION の掲示板
http://www3.videa.or.jp/VIDEA-NET/NEWS/light.cgi
の [70] の記事で少し触れられています。NEWS 本体については
こちらの方々が結構詳しいのではないかと思います。
---
Izumi Tsutsui
tsutsui@ceres.dti.ne.jp

[tsutsui-0108040403]

NEWS のモデル一覧や、NEWS-OS のリリース一覧は、 「SONY NEWS に関する資料」 にある。

From: Izumi Tsutsui <tsutsui@ceres.dti.ne.jp>
To: katsu@sra.co.jp
Date: Sat, 4 Aug 2001 04:03:26 +0900 (JST)
Subject: Re: 歴史的コンピュータとソフトウェアに関する SRA         での昔話

お返事どうもありがとうございます。

> ありがとうございます。公開した甲斐があります。そうでした、NEWS に
> ついては NetBSD な人々にお話を伺えばよかったのですね。すっかり
> 忘れてました。

曽田さんも十分 NetBSD な人だったりしますけど… ;-)
曽田さんには移植の際にいろいろ相談にのってもらったりしたんですが、
NEWS 自体についてはそんなに作業してなかったかもしれませんね。
#曽田さんは大学のサークルでの先輩だったりします。

ちなみに NetBSD/newsmips,news68k のいずれも移植は SONY や
NEWS 開発とはまったく縁のないメンバーで個人的に行われていました。
#というか newsmips は IRI のつばいさん、news68k は私の各一名だけ。
#移植はそれぞれ違う時期だったのでお互い動作テストとかはしてましたが、
#news68k に関してはハードに関する資料がほとんどなくて苦労しました。

現在では日本人 NetBSD 開発者の中に sm.sony.co.jp 方面の方々も
いらっしゃいますが、主に NetBSD/hpcmips を含めた MIPS generic な
部分で活躍されているのがちょっと意味深かもしれません ;-)

> 筒井さんのメールですが、重要な情報が含まれているので、自由に使わせて
> 頂いていいでしょうか?(メールアドレスの流出が困るとかいうことがあれば
> お知らせ下さい。)

問題ありません。メールアドレス等もそのままで構いませんので
自由に使ってやって下さい。

> > ただ、NWS-17x0 の発売が NWS-18x0 の発売よりも後だというのを
> > 知った時はちょっと意外でした。
> 
> これは、私のほうのモデル一覧表と食い違うお話のようです。
> 確認したいので詳しい出元を教えて頂けますか?

いえ、渡邊さんのリストでは
NWS-1750  1988/10/21
NWS-1850  1988/07/21
となっていますので食い違っているということはないと思います。

私がこれを初めて知ったのはアスキーから出版されていた
「UNIX ワークステーション NEWS 改訂新版」
http://www.ascii.co.jp/books/detail/4-7561/4-7561-0065-1.html
を入手して読んだ時です。(残念ながら今では絶版です)
正確な発売年月については誤植があったりでよくわからないところも
あるのですが、いずれもほぼリストと同じ時期になっています。

ちなみに RISC NEWS についても
NWS-3460  1990/07/21
NWS-3860  1989/12/29
ですからこちらも IOP つきの方が早く出ていたことになりますね。

なお上記の本には NEWS-OS のリリース時期についても書いてあるので
それも転載しておきます。

---
1987年 1月  NEWS-OS 1.0     4.2BSD X10R3 SJIS
       2月  NEWS-OS 2.0     NWS-811(ディスクレス)対応
1988年 1月  NEWS-OS 2.1     NWS-700(ディスクレス)対応
       2月  NEWS-OS 2.2     X10R4
       7月  NEWS-OS 3.0     4.3BSD X11R2 EUC NWS-1800対応
      10月  NEWS-OS 3.1     NWS-1700対応
1989年 4月  NEWS-OS 3.2     NWS-800対応
       9月  NEWS-OS 3.3     4.3BSD X11R3 ダイナミックバッファ 国際化
      12月  NEWS-OS 3.9R    NWS-3800(RISC)対応
1990年 7月  NEWS-OS 3.4     NWS-1200に対応
            NEWS-OS 3.91R   NWS-3400に対応
      12月  NEWS-OS 4.0C    4.3BSD X11R4 OSF/Motif MC68020/30
            NEWS-OS 4.0R    4.3BSD X11R4 OSF/Motif R3000
                            CISC/RISCの統合
---

ちなみに news3400 のコードも入っている 4.4BSD-Lite が出たのは
1994/3 頃らしいです。この移植作業をされていた時の歌代さんの
お話とかもできればうかがってみたいものですね。
---
Izumi Tsutsui
tsutsui@ceres.dti.ne.jp

[nobody-0108020321](一部編集)

・From: nobody:Web 上の情報送信フォームで匿名で寄せられた情報
・一般ユーザが RISC NEWS-OS をダウンさせる方法
追試したところ、NEWS-OS 4.2R では SIGILL が発生して、 正しく異常終了した。 一方、NEWS-OS 4.2C では確かにシステムがフリーズした。 よって、CISC での話の誤りと思われる。
元のメールには、 入江英夫氏が UNIX Magazine の広告に載っていた旨の記述があったが、 確認できないので削除した。
From: nobody@sraihf.sra.co.jp (via anonymous commenting form)
To: katsu@sra.co.jp
Date: Thu, 2 Aug 2001 03:21:02 +0900 (JST)
Subject: www.sra.co.jp/people/katsu/doc/comphist/

http://www.sra.co.jp/people/katsu/doc/comphist/ を読んだ感想を送ります。

なつかしく読ませていただきました。

あと、NEWSの晩年はいい思い出が無かったですね。
私だけが知っている話として。

-Note NEWS
NoteのCISC NEWSが出たとき、10BaseTの口しか無くなって基盤上に
パターンだけ残ってた10Base5の口を復活させる改造記事をfjに流した
ことがあります。RISC News Noteは2台購入して結局2台とも故障
してしまい、99万もしたこと以外は印象に残っていません。CISC
の方はUUCPのゲートウェイに使ってましたがキーボードの接触が悪く
なってサービスの人に来てもらった以外は無停止でお客さんのところ
で元気に動いています(もしかして現在も?)

-CISC NEWS-OS 4.2
今だから話してもいいのでしょうが、CISCのCコンパイラにunsigned
同士の比較が符号付の時と同じコードが生成されるという隠された
問題があり、当然カーネルもすべてその問題ありのコンパイラでビルド
されていて、発端になったのはTCPプロトコルがシーケンス番号の
MSBが変化した直後からおかしな挙動を始めことを見つけたからでした。
コンパイラの問題を特定してから、NEWS-OSのソースが無いので代わりに
BSDのtcpinput/tcpoutputのソースで問題を回避するように修正した
カーネルをリビルドして事なきを得ました。その旨をSonyのサポート
に伝えたところ、正式なパッチを緊急に出す代わりにコンパイラの
バグの件は伏せておいて欲しいと念を押されました。公式のNEWS-OS
サポート情報にも結局コンパイラのバグの件は無かったと思います。

-RISC NEWS-OS
OSの問題だと思いますが、Cのプログラムを**************************
****************実行させるとシステムがフリーズする問題がありました。
******
*
*
**************
************
*********
*******
とやるだけで一般ユーザーがシステムを一瞬にしてダウンさせることが可能
でした。これもSonyのサポートに伝えると、そんなことは誰もしないからと、
一笑に伏させてしまいました。NEWS-OSサポート情報には報告されていない
と思います。セキュリティや脆弱性が問題視されなかった時代はのどかでした。

当時NWS-1860を通信カラオケのデータベースとして全国に数十台設置
した仕事をしました。NEWSが生産終了してSUNのSparcStationにリプレース
するまではどれも365日5年間無停止で故障知らずで、それだけが良い
思い出です。
-- 
FROM: 魔法使い
この Web page を知ったきっかけ: 9:その他
    How do you come: Slashdot News JapanかYendot News

[nobody-0108020328](一部編集)

・先ほど書きました内容: 直前の記事[nobody-0108020321]
From: nobody@sraihf.sra.co.jp (via anonymous commenting form)
To: katsu@sra.co.jp
Date: Thu, 2 Aug 2001 03:28:48 +0900 (JST)
Subject: www.sra.co.jp/people/katsu/doc/comphist/

http://www.sra.co.jp/people/katsu/doc/comphist/ を読んだ感想を送ります。

先ほど書きました内容で一部訂正があります。

改造記事を書いたのは、RISC NEWS Noteが出てすぐで、Noteは後にも先にも
RISCしかありません。それ以前にあったラップトップ(CISC/RISC)と混同して
おりました。古い話で記憶が後先がごっちゃになってしまいました。

失礼致します。

-- 
FROM: 魔法使い
この Web page を知ったきっかけ: 3:Mailing List,BBS,News site
    ML: Slashdot

[nobody-0108031137](一部編集)

・Apollo

1981 年に登場して Workstation の先駆け的存在となった Domain シリーズを製造販売していた会社。 (SUN の設立は 1982 年2 月である。) 一時は SUN と激しく競争する存在であったが、 Apollo 社は 1989 年に Hewlett-Packerd 社に買収される。 HP 社は Domain の販売を 1994 年に終了し、サポートも打ち切られている。

Domain の OS である Aegis(後の DOMAIN/OS)は分散OSで、 local の資源も遠隔の資源も透過的に利用できた。求む詳しい情報。

Domain は、2000年問題や Unix の 2038年問題の先駆けとしても、 具体的で深刻なな障害実例として、 1997年11月問題 を起こしていた。

・Basic09
OS-9 上の構造化 BASIC 処理系。 行番号によらないラベルによるサブルーチン呼び出し(や goto)、 変数の局所的 scope と再帰可能性など、 Pascal 的な素性のよい構造化言語の性質を備えている。 (2001年現在も OS-9 上のプログラム開発に利用されているのだが、) 1980年代初頭に BASIC09 を経験した人の多くは、 他の BASIC 処理系より(時には非常に)高速だったと述懐している。
From: nobody@sraihf.sra.co.jp (via anonymous commenting form)
To: katsu@sra.co.jp
Date: Fri, 3 Aug 2001 11:37:00 +0900 (JST)
Subject: www.sra.co.jp/people/katsu/doc/comphist/

http://www.sra.co.jp/people/katsu/doc/comphist/ を読んだ感想を送ります。

 懐かしい。

 1987年頃、NWS-820を中心とした品質管理システムを構築しました。
製造現場で測定したデータを使い、製造現場では品質管理に、出荷検査
では、検査成績書の発行に使いました。
 当時、システム事業の強い反対を押し切ってのUNIX/分散/RDB/Cの
導入でした。システム事業部の課長が言った言葉を今でも憶えています。
「俺達は、プロフェッショナルだ。UNIXの様な海の物とも山の物とも
つかない物を使えるか。お遊びじゃないんだ。」しかし、強い信念の
もと、専務まで掛け合って稟議を通してしまいました。
 私は、単なる製造工場の技術の人間でしたが、当時のシステム事業部は
汎用機しか頭になくて、パソコンやワークステーションはただのおもちゃで
しかなかったのです。しょうがなく、現場寄りのシステム構築をパソコンで
色々と手がけていたら、品質管理部門からお声が掛かった次第です。
なんせ本当の職務をほったらかしてシステム構築していたせいで、
評価はあがらず今でも薄給の身ですが、本家本元のシステム事業部の
できないことをやるのは大変楽しかったです。
 EthernetのLANは、黄色の極太いケーブルしかなく、二本のケーブルを
リピータで接続し、工場内を一筆書きでジグザクに這わせました。LANも
一般的ではなく、NWS-800にシリアルの増設ボード2枚も載せて手近なパソ
コンとRS-232Cで結んで端末として使いました。遠くのパソコンとは、光
モデムを使って接続しました。この光ケーブルがプラスチックなのに折れ
安く設置に気を遣いました。シリアルケーブルで繋げたパソコン(ただの
キャラクタ端末)にグラフを表示させる為に、専用のエミュレータまで作って、
データのアップロード、ダウンロード、パソコンのプログラム起動を自動で
やらせました。今から思うとすっごい力業でした。
 「明日、客が見に来るぞ」というとき、NEWSとパソコンの通信部の
プログラムにバグが見つかり、徹夜でバグ潰しをした憶えがあります。
その頃と比べると今の環境の整ったこと! その割には生産性が上がって
ない?!

 あの頃、今は亡きApolloとSUNが売り込みにきましたが、結局NEWSに
なりました。Apolloは性能も高く価格も安かったのですが、カーネルが
先進過ぎて標準にならないだろうということで見送り、SUNは価格が
ただひたすら高くで営業の態度まで高慢でしたので見送りました。
 パソコンはカラーCRTが標準でしたが、ワークステーションの
カラーは白黒で、パソコンのカラー画面を羨ましく思ったものでした。
その代わり、白黒とはいえ高解像度でしかもX-Windowは、これぞ
ワークステーションという雰囲気でした。なにせ、パソコンはMS-DOS
全盛時代でしたから。ま、私はBasic09派でしたが。

 あ、またサボってしまった。

匿名希望 ******** **********************

-- 
FROM: 匿名 <nobody@sra.co.jp>
この Web page を知ったきっかけ: 9:その他
    How do you come: ネットサーフィンしてたらぶつかった。

補遺:OSB部の発展的解散

SRAオープンソースビジネス部(略称 OSB)は、 2001年4月1日付の組織変更によって解散しました。 OSB が果たしていた役割は、より専門特化され、

に受け継がれています。 オープンソースビジネス部には専用の Web site:

http://osb.sra.co.jp/

がありましたが、これの管理は LSG に移管されました。


ご意見ご感想・誤りの指摘や情報の提供を歓迎します

匿名で情報をお寄せいただくこともできます。


渡邊克宏
katsu@watanabe.name